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もうひとつの声/『ウーマン・トーキング 私たちの選択』

 『ウーマン・トーキング 私たちの選択』を見た。

 キリスト教一派が自給自足で暮らす村で、睡眠薬を飲まされた女たちが夜な夜なレイプされる。被害を訴えても「悪魔の仕業」「作り話」などと男たちから言われ、ずっとうやむやにされてきた。しかしある晩、現行犯を見つけたことで、村ぐるみの犯罪だったと判明する。男たちが不在の2日間、女たちは許すか、戦うか、去るかを決めるため話し合う。

 投票の結果、戦うか去るかの二択に絞られる。女たちは納屋の2階で話し合う。この2階に手すりのない開口部があり、女たちが度々そこに立つものだから、落ちてしまわないかと劇中ずっと心配だった。彼女たちの崖っぷちに立たされた心情が、可視化されているかのようだった。

ケアの倫理

 特徴的だったのは、激しい議論の最中でも互いに互いをケアする姿が見られたことだ。発作を起こす者をいたわり、泣き出す者を抱きしめ、激昂する者をむやみに止めたり咎めたりしない。タイムリミットが迫っていても、中断すること、時間がかかること、結論が見えないことを厭わない。これはケアに精通した(あるいはケアを担わされてきた)女性の集まりだからだろうか。男性の集まりでも、このような姿が見られるだろうか。

 キャロル・ギリガンが著した『もうひとつの声で』によると、男児の集団がゲームの規則に従って「勝つこと」に重きを置く傾向があるのに対して、女児の集団は勝敗より「人間関係を築くこと」に重きを置く傾向があるという。確かに、本作において女たちが決裂することはない。最終的な決定に(一部の例外を除いて)皆が同意する。そこには基本的な信頼感と結束、異なる意見を恐れない集団としての強さがあるように見える。女たちは個々の主張の勝ち負けでなく、分かり合えない部分を抱えたまま、それでも互いに連帯することに重きを置く。その根底にあるのは、互いに対するケアの倫理だろう。

キリスト教信仰

 彼女らのキリスト教信仰はこの話し合いにおいて、毒になったり薬になったりする。特に「ゆるし」の教義が「ゆるさなければならない」というプレッシャーとなって彼女たちにのしかかる。それに対して怒りを露わにすると、ともすると「不信仰」だと言われかねない。性被害の告発が、宗教教義に絡め取られてうやむやにされてしまうのだ。これは現実の宗教被害、昨今では「宗教2世問題」の文脈で繰り返し行われている。虐待の問題が、信仰のあり方の問題にされてしまうのだ。信仰の有害な側面だと言わざるを得ない。

 その一方で、信仰が一定の癒しをもたらす側面もある。終盤、女たちが手を取り合って賛美を歌う場面がある。それまでの議論、これまでに受けた被害、その痛みと苦しみを抱えたまま、それでも神を讃える姿には、わずかながらも希望の光が灯っているように見える。このような信仰の功罪について、信仰者はより敏感でなければならない。

南十字星

 女たちは村を去る決意をする。しかし彼女らは、自分たちがどこにいるのかさえ知らない。読み書きはもちろん、基本的な教育を受けていないのだ(冒頭の投票でもイラストで選択肢が説明されていた)。そのため、話し合いに書記として参加した唯一の男性オーガストが地図を用意し、南十字星で方角を確かめる方法を教える。私はこの南十字星に、1985年の青春映画『セント・エルモス・ファイヤー』を想起した。船乗りたちが航路の目印にした「聖エルモの火」が人生を導いてくれるんだ、とビリーがジュールズを励ますシーンだ(その話自体は嘘っぱちだ)。これは人生の航路は自分で決めなければならない、というメッセージの暗喩でもある。村を離れる女たちは行き先を知らない。ここで「神に頼る」のでなく、「南十字星を目印にする」という現実的な方法が提示されるのは、彼女たちの信仰的な自立、神からの精神的な自立を表しているのではないだろうか。

男性不在

 本作には加害者である男たちが一切登場しない。冒頭でわずかに映るが、顔も名前も伏せられている。それは一つは、加害者と被害者ではまともな話し合いにならないからだろう。そもそも本作に至るまで、男たちと女たちは幾度となく話し合ってきたはずだ。その結果、女たちの声が封殺され、ないものとされてきた。その経緯を考えれば、男性不在を狙って行動を起こすのは当然のサバイバルと言える。
 もう一つは、女たちが声を上げるべき時だからだ。奪われてきた声を取り戻し、被害者というステレオタイプに閉じ込められたものでない、個々の物語を語るべき時だからだ。その姿勢は唯一の男性参加者であるオーガストに、「あなたは黙って聞きなさい」と宣言するところによく現れている。

 そしてその声は、これまで男性中心社会においてまともに聞かれてこなかった、消されてきた、否定されてきた、「もうひとつの声」なのだ。

立ち去るという決断

 女たちが村を去るのは「正解」だったのだろうか。日本の学校のいわゆる「いじめ」問題において、被害者が登校拒否したり転校したりせざるを得ないのと同じで、どこか理不尽に感じてしまう。詳しい事情を知らされないまま、住み慣れた村を離れさせられる子どもたちも同様に感じたかもしれない。
 しかし残って戦う決断をしたら「殺人者になる」と言う女もいる。それもまた事実だろう。加害者と被害者が日常生活において対峙し続けるのも現実的でない。

 女たちは2日間で結論を出さなければならなかった。しかし彼女らの旅は続き、暮らしは続き、更なる話し合いが重ねられるだろう。大切なのは変わりゆく状況にあって唯一無二の「正解」に辿り着くことでなく、どんな状況にあっても対話をやめない姿勢なのかもしれない。

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