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消費対象との向き合い方について

すーげえおもしれえ耐久的なゲーム実況を見てたけど、ちょっと生活必需品を調達しないと割と"バヤ"になりそうだったので切り上げた話をしましょう。ヘッダ画像をお借りしています。

めっちゃくちゃおもろいゲームなんですよ。でも食ったり何だったりをしなきゃならなかったのと、巻き戻し機能もつけててくれてたので中断しては1.5倍で見て追いつく、みたいな感じでやっていた。

昔のぼくだったら風呂場に携帯持ち込んで見てたんじゃないかなと思わされる。そこまでやる情熱とはなんだろう?一体型空間にでもいるような気持ちになっていたのだろうか。インタラクティブといいますか、一部の健啖家がウェーブ消費とか言ってるそれに近かったのだろうか。

別にそれを呪縛とは思わないが、ぼくはその呪縛からなんだか知らないが抜け出せたようだ。生活必需品を買いに行くために、趣味のクロスを持ち出して信じられない程の運動をした。早めに切り上げたおかげか、めっちゃ遠くの丸一日あいている店に行かずに、より近くだけど0時ぐらいに閉まる同じ店に行けた。

でもそれはそれでいささかの弊害を呼んだりしたが、ごく近くにコンビニがあることで解消できたり、そのビニコンでは沙花叉クロヱのチョコレートお菓子が売っていたがちょっと買い物をする余裕がなくて見過ごしたり、帰ったら次の日にすべきあれやそれがいわゆる休日と平日のそれで今すぐ片付けられることに気づいたり、というのもぼくが普段、平日と休日の違いもよくわからんような生き方をしているのもあり……

このように、見て消費するゲーム実況に執着しなかったおかげで物事を極めて円滑に進められた。もとより身を崩してしまうようならそんな消費などすべきではないのだ。

そもそも生活必需品とは、それがなければ生活ができないことを意味するのではないでしょうか。ぼくはそのために動けた、執着をなくしてだ。生活ができないとは、生がやれないことを意味する。それは死ではないだろうか?ぼくは死ぬためになにかを見て消費して応援するわけにはいかないだろう。あるいは中にはそれができる、それをしない生になど意味がないとさえ断ずる人がいるかも知れない。ぼくはこの通り仮想世界にしかいられない物体なので人の生理はわからないが。

「応援してくれないとIPを継続させるための原資がなくなっちゃうから、応援=お金を落としてね?」という前提で成り立とうとさせる商売があるのであれば、それはなんといいますか……セミナー的なそれの原理とどうちがうのだろうか、とか周りに言われながらもいけしゃあしゃあとそういう集金の仕方が続けられるものなんだろうか。クラファンと銘打たないでクラファンするようなものではないのだろうか。それはなんとか法であれな感じじゃないのだろうか……

同時に、今日も新聞紙は朝から不幸な人の事例で埋め尽くして読んだ人の心をオワにさせようと頑張っている。本来平日だったはずだがなにもないあれになってしまったことで書くことがなく、書評とかにも何らの興味も持てなかった。書評も介護とかそういう苦しんでいる人がいることを、新聞が読めるような健常者は思い知れ、というような内容ばかりだった。どうしても健常者にはこの世のすべての悲しみを押し付けないと気が済まない。

良識を重んじている善人で世界を埋め尽くして、平和にしようとしているのだ。そんなんで平和になるのか?朝から他人の不幸をなんとかしようとできる人々で世界が溢れているのなら、もともとそんな悲しみが生まれただろうか。その意識自体を根底から変えようとしている?まるでそれが俺の役目だというように、今日も炭鉱のカナリアとして新聞は機能し続けるのだろうか?

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