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空海展感想(奈良国立博物館)

空海生誕1250年記念ということで空海展。おそらくこの規模では2003の入唐1200年記念の「空海と高野山」展以来のものになると思います。仏像に焦点を当てた展覧会としては2019年の東博が最新ではありますが、空海展となると20年ぶりです。

高野山の名宝名物盛りだくさんだった祝祭的な2003年版に比べれば、「密教とは」「空海のしてきたこととは」と宗教色が強めの展示になっています。美術館だけでなく高野山大学が監修に入っているからでしょうか。

概要

第一室がとにかく壮麗で、曼荼羅の世界をそのまま再現した国宝仏像の配置ですが、脇に仏画がずらりと並び、正面奥に曼荼羅がかかっているという、驚きの展示でした。それを観るためだけにでも行く価値はあります。

空海展に限らず、普通は絵は絵のコーナー、仏像は仏像コーナーと区分されてそれぞれ細分化されて展示されるのが常ですが、第一室はそれをとっぱらい、擬似宗教空間を作り上げることに成功しています。

宗教性から理性による分離区別を、博物館というものは至上のものと邁進してきました。宗教美術も信仰の対象としてではなく、美術品(文化財)として扱うように徹底してきましたが、今回はそれが緩やかにクロスしています。

より本来的な鑑賞を、というのが今日の展示思想にはありますが、普通に賽銭箱を設置したら宗教施設になってしまうような、それほどの没入感がありましたし、いずれにせよ仏教美術の展覧会史に残るものだと思います。

次は、密教のルーツをということで、仏像の印や造形を書いたメモや、貴重な古経典がずらりと並びます。大陸ではなくインドネシアの方に伝わったのも密教で、そちらのルートについての解説が充実していたのが面白かったです。

ボロブドゥール遺跡などで有名なインドネシア仏教の世界も、再現されていましたし、その仏像の修復を日本が手がけているなど、遠く広大な縁を感じる次第です。

《風信帖》空海筆

それらが終わってようやく空海の関係のある遺物や、メインの書の美術に入ります。書は神護寺の《灌頂歴名》以外のものはひととおり空海筆のものが揃っていたように思います。豪華であり贅沢です。

個人的には雄渾な漢字が見事な《聾瞽指帰》はぜひ集中してみていただきたいと思います。本当に絶品とはこのことを言うのでしょう。

快慶《孔雀明王》

空海と高野山金剛峯寺の関係は切っても切れないので、最後はお馴染みの名品展という形で終わります。見応えがありました。

感想

①仏教美術展の宗教色の高まり

高野山大学が監修に加わっていることから、空海に至るまでの密教の伝来と内容がしっかり紹介されていました。そこはとてもありがたいですが、ものすごく「真言宗」を感じた次第です。「奈良国立博物館」ではなく宗派の凄みのアピールみたいな覇気がありました。

あくまで空海展

第一室の壮麗な立体曼荼羅の再現が圧巻と書きましたが、近年の体験型展示(例えばマティス展の礼拝堂再現など)の流行もあってか、展示室がスペクタクル化している傾向があります。本展もまさにそれで、博物館は信仰の対象を理性的に切り離して宗教美術と捉えるのが近代の約束ですが、体験型展示はそれらの再宗教化のように思えるのです。

実際礼拝している人もいましたし、それは別にいいのですが、脱宗教というところから出発して発展した施設が、近年の流行(客の口コミアップのためという面もおそらくある)によってスペクタクル化する方向は、近代の約束をやがて揺さぶるかもしれません。

布教のための展示でないことは明らかですが、それでもかなりギリギリのラインなのではと思うところも多く、仏教に限らず宗教美術と博物館展示の200年以上に渡ってやってきた関係が変質してきているのでは、と思います。

②インドネシアについて

発見もあり見応えもありましたが、展示の趣旨からするとやはり浮いていたと思います。奈良博初め日本の文化財修復とインドネシア国立博物館の提携関係を知らせる、宣伝的な要素が強かったなと。

密教云々で言うなら、空海が持ち帰ってきた後も北インドで密教の理論は発展して、やがて性交の恍惚といった方面にも向かいます。それらはチベットに移っていきました。他に中国の中でも多様な密教の教えがありましたし、空海は何を選んで何を選ばなかったのか、という視点で考えられるくらい多様なものがあったはずです。

しかしここではインドネシアだけ、さらにそれは経典としては関係があっても、空海とは直接の関係はないので「空海展」においてはねじ込まれた印象が拭えませんでした。

③圧巻の宝物

平安時代初期の経典や書画の凄みというのは、やはり格別なものがあります。1000年以上残ってきたというのもそうですが、美とは違う霊圧のようなものを感じます。それでも考古品とは思えないので、何をもってして美術と人は判断するのか、というひとつの究極的な問いと向き合ういい機会にもなります。

何より空海の書は、各点はそれぞれの記念や国宝展で割と高頻度で出ますが、ひとつに結集することは稀です。あれもそれも空海筆なので、これが目玉ですよという演出もなくサラリと置いてあってリラックスして観ることができます。何度か観てきたものですが、そのためかちゃんと観られたように思います。

伝空海所持の金剛三鈷杵(飛行三鈷杵)

最後は普通に高野山の名品展になってしまっていましたが、前室までの多幸感でそんなことはどうでも良くなっているはずです。大満足でした。

まとめ

体験型展示や外国との提携紹介を含んだ、仏教美術の展覧会史に残る展示であることは間違い無いです。ただそこが空海の展覧会としての焦点をぼかしてしまっていないか、とは思います。

真言宗や高野山の総力を結集という圧をひしひしと感じるので、脱宗教が博物館の出発点とアカデミックに教わった人間としては、戸惑いや驚きがありました。

奈良国立博物館は毎年一回、前回は南山城展でしたが、相当綿密に組んで最高の展覧会を作り上げるので、仏教美術を堪能するには日本最高の場所でしょう。その意識を改めて持ちました。
空海の書を見たことがないという人なら、遠方からでも行く価値があると思います。

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