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印象派2日間

『パタゴニア』という旅行記なのか随筆なのか、それともフィクションなのか判然としない本がある。大体の人は困惑するが一部の放浪癖のある人間から絶大な支持を受けている、英国の作家ブルース・チャトウィンの代表作だ。
私は彼にシンパシーを感じ、全作品及び評論まで読み込んだ。英国人の伝手を辿り、チャトウィンと交友のあった人も訪ねて、その印象を聞いたくらいだ。

ブルース・チャトウィン(1940〜89)

チャトウィンは作家になる前、オークションハウスのサザビーズで印象派のセールを担当していた。ほら吹きで鷹揚、突飛でチャーミングな語り口で多くの顧客を魅了し、また困惑させたという。とにかく自信を見せて信頼を得るという手法をとっていたらしいことが、彼についての評伝に書かれている。

その中で気になるインタビューがあった。既にサザビーズは辞めて作家として高名になっていたころ、オーストラリアのアデレードにて1984年に行われたインタビューの中で、彼のオークションハウスでの経験がいかに創作に反映されているのかを尋ねた際の発言が、私の興味を強く引いた。

何度読み返したか分からない傑作評伝

記者「印象派の専門家になるのにどのくらいかかりましたか?」
チャトウィン「二日、ですか」

印象派の専門家になるにはたった二日で良い、ということだろうか。凄い自信だなと感心して少し笑ってしまった。剛毅なほら吹きの一環だろうと解釈したが、冷静に考えてみると、そこまで変なことを言っているのではないのかもしれない、と思った。

単純に、美術史の新発見は専門家でも困難だ。新資料など見つかることはほとんどない。文献資料を解釈するゲームにしても巨匠たちの読み解きは既に膨大な先行研究を踏まえなければならない。独自の解釈だと思っていたら修復の結果あっさり否定されるという悲劇も聞いたことがあるが、エレガントな学問分野にしてはひとりひとりの貢献は微々たるもの。
特に西洋美術史は、世界でも研究者しか知らないようなアーティストの作品をつつくのが精一杯ではないか、と思うほどだ。

では「専門家のように作品を観て語り考えること」はどうだろうか。非アカデミアの美術ファンが言いそうな「専門家を超える」ということは不可能であり、目指すところではない。新発見や新解釈を論文にする義務はなく、ただ専門家並みの知識を獲得して応用することは、それほど困難なものではないと私は考える。

知への敬意が足りないと怒られてしまいそうだが、人文学の中でも美術史に関して言えば知識の収集は楽である。文学研究なら作品を読まなければならず、例えばプルーストを論じようと思うならそれだけで数か月は要するはずだが、絵はその場で見ればすぐに始めることができる。
最近は高精細の画像が出回っているので好都合だ。どこにいてもたやすい。特殊知識や技能はいらない。

ではチャトウィンの言ったように、二日で印象派の専門家に並ぶためのメゾットを考えたい。

前提は
①画家の名前と何となくの代表作は知っている。
②高校世界史の知識はある。
③充実した図書館に行くことができる、政令指定都市や中核市にいる。もしくは通える環境にある

記憶定着のためには原始的とはいえノートに書きとりが有効なので、筆記用具とノートを使うことにする。一冊「印象派ノート」としておくといいのではないだろうか。

1日目

Wikipediaをつかう。日本語版の「印象派」も珍しく的確で精緻だ。

世の絵画入門や美術史の初歩的なところについての書籍は数えきれないほど存在するが、どの本もそこまで内容に違いはない。ネット上にある「印象派とは何か」の文章でもいいが、それらはほとんど大差ない。レトリックやレイアウトが異なるだけで、手を変え品を変え類書を売り続けているのが実態だ。

とりあえずのWikipediaというのはこの際は有効である。概略は掴めるはずだ。もし知らない用語や画家がいたらWikipediaはそこから検索して補完できるのは強みである。
できたら自動翻訳を起動させて、英語版あるいは「秀逸な記事」指定されているフランス語版を参照出来たら非常に高度な知識まですぐに到達することができる。
実際、専門家も詳しく知らないことは英語版や対象の言語のWikipediaで概略を調べることはある。

ここで主要な画家の名前、印象派に関する基本的な年表、一般的な意味で「なぜ印象派の表現ができたか」の理由を押さえるだけでいいと思う。整理は2時間くらいで可能だろう。午前はネットサーフィン的に知識をぼんやりと集めていきたい。

午後から少し大きめの図書館に向かう。展覧会図録をいくつか漁るという強硬手段に出よう。基本的に最新の図録の方が良いのだが、Xでたまに呟いているように、1990年代から2000年代の図録は情報量が多く学びが多いので、その年代の「印象派展」とついたものを読むことにする。

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