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さらに観念論をも超えて

ひとのいのちということ、ひとが生きるという問題に、最も早く、深く立ち入る手段として、私は精神障害の問題に40年近く取り組んできた。そうして精神医療、福祉、障害者差別の問題…


自分の中に差別のこころがあることは隠さない。ハラスメントやジェンダーの問題に反動的な思いがあることも… 基本的にまだ私は男権父権論的な者である名残をぬぐえないでいる。しかし、被差別当事者として、他のいろいろなマイノリティを理解し、協調しようとしている。つまり、私の精神障害者差別に対する論調はまだまだ未完成なものなのだ。


ひとが「何かわけのわからない、恐ろしいもの」として精神障碍者を恐れさげすみ、差別する心理構造を、うっかり「差別の構造」と記し、信頼する友人から手痛い反論にあった。物心つく前からの「教育」により、社会構造として差別が生まれたのか、と。事実は違う。


精神障害者差別は社会構造の問題としてすら認知されていない。ある意味この差別は「あって当然」で、部落差別や他の差別問題とは異なり、「社会問題として」意識をされる前の段階にあると思われる。さまざまな欠格条項、強制入院制度などだけをとってもそれは明らかだ。ここは本稿の主要な話題ではない。


ひとのいのちをよりよく生きるという、「健常者」にとってはわかりやすい生きがいが、時に我々精神障害者にとって希薄になりがちだということ。特に「分裂病(私は統合失調という呼び方を嫌う)者」の「離人感」と呼ばれる「現実感覚の欠如」による皮膚感覚「宇宙感の欠如」、つまり「生きているという実感」が「薄れてしまうこと」!


いのちをよりよく、がわかりやすい、と書いた。だが問題はそう単純ではないかもしれない。

いのちを大切により良く生きるという命題が、必ずしも人口に膾炙したものとなっていないかもしれないと思いついたからだ。


そう、私はまず自分が生き生きと生きることが第一だという事実にごく最近気がついた。自分が生き生きと生き抜くことが後進の喜びになるということに。私の生きざまを見せること…

ひとのいのちだ、ひとが生きるということ、だといった、私のわかりづらい言い回しは、私の生きざまでのみ理解可能になるのだ、ということ。


さて私は観念論を超えて、実社会に投企するものになろうと思う。このような投稿が再びあれば、読者諸氏よ、私を叱ってください。

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