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小説「灰色ポイズン」その8-美菜子先生と昼食

「うちの病院の食事って案外いけるのよ。事務長がホテルのシェフだった人を根気強く口説いてここにきてもらったの。さあ、冷めないうちにどうぞ」
そう言うと、いつの間にかシチューとクロワッサンを交互に食べ始めていた。美菜子先生は、本当にお腹が空いていたようだ。

『おいし過ぎず、まず過ぎず。町にある大衆食堂のような程よいうまさで飽きがこない食事。そして懐かしいヘルシーなメニューを心がけている』
と待合室で読んだ病院のパンフレットに書いてあった。その後の文章は読んでない。今更だが気になってきた。その理由ってなんだったのだろう?帰りにパンフレットを一冊もらおう。

美菜子先生の食べっぷりに誘われて私もシチューに口を運んだ。温かくてやさしい味。ひと口食べたら誘い水になったようで急に空腹感を覚えた。

私と美菜子先生は食事を食べ終わるまで無言だった。私がシチューの最後の一口をスプーンで丁寧にすくって飲見込むのを見届けてやっと声を出した。
「もう一杯紅茶はいかが?それともデザートのプリンを食べてからがいいかしら」

私はもう一杯紅茶を頂くことにした。そして、2杯目の紅茶にレモンを一切れ入れてお茶がこぼれないように慎重にかき混ぜた。レモンの香りを嗅いだら急に映像が現れた。動悸がし始めて息が苦しくなってきた。
母さんと私が昔のあの部屋に横たわっているのが見える。自分の鼓動が頭に響く。身体が動かない。

美菜子先生は、私がソーサーごとティーカップを持ち上げてフリーズしているのに気づいたようだ。
そして、静かで落ち着いた口調で声をかけてきた。
「森野さん、どうかした?気分が悪かったら遠慮なくそう言ってね。ここはね、病院なんだから我慢することなんかないのよ」

私は、やっと紅茶をテーブルに置いた。私は宙を見つめながら美菜子先生に説明をした。
「気分が悪いのではないです。ただ昔の嫌な映像が見えてしまって....」
美菜子先生が続けて言った。
「見えてしまって?それから?ゆっくりでいいから話したかったら話してみて」
私は見えたばかりの映像の話をするにはもう少し時間が欲しいと思った。言語化できそうもない。
「もう少し後にします」と捻り出すようなか細い声で答えた。
「そう、わかったわ。じゃあ、デザートのプリンを頂きましょう。このプリンはねレトロな蒸しプリンよ。今なぜだか巷で流行っているらしいの。ゆっくり召し上がってね。私はちょっと院長に用事があるから10分程院長室に行ってきます」
美菜子先生は食べることが好きなんだ。食べ物に関しての説明を怠らない。でも、それってもしかすると食いしん坊な私に対してのサービスだったりして...。

私はレモンの香りに誘発されて辛い昔の母さんとの思い出のシーンを見て動揺したばかりだった。それなのに、割と冷静にというか、こういう時に特に淡々としてしまい他人事のように対応してしまうのが常だ。
それが不思議に思えてついて考えていた。このことも美菜子先生に聞いてみてもいいものだろうか。
ディパーソナラゼーション?離人症の一つの症状のようなものなのか...。

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