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小説「灰色ポイズン」その1


「ねえ、わかってんの?あんたの母親はね、妻のある男に色目使って言い寄ってんのよ」受話器の向こうから、しゃがれた声が聞こえた。

いつも思う。おばちゃん、なぜこんなにも攻撃的なのか。きっと、彼女も何かに傷つけられているのだろう。色目?色目って何?ブルーとか、そんな風に色がついた目のことか、それとも外国人?

「わたし、何もわかりません」ガチャッ…。

時々、世界がまるでぼやけて見えるように、言葉が霧の中に消えていく。私は自分ではそんなにはおバカじゃないと思うけど、わからない言葉が多い気がする。

それでも、電話の向こうの声がわたしに対して攻撃的であることは充分に伝わっていた。喉の辺りに熱い何かが込み上げて、手が小刻みに震え始めた。

おばさんの声は、しっぽを踏まれたドラ猫のようなヒステリックな抑揚があった。その声は、家に時々来る大牧のおじさんの知人だった。そして、その人は、大牧さんの奥さんのお姉さんとかいう人らしかった。

母さんは、なぜいつもこんな時間に家にいないのだろう。母さんの代わりに、わたしがこの攻撃を受けることになる。電話を切ってからも、その声の残響が耳に残った。

夜になって、母さんは一旦家に戻ってきた。汗ばんだ体から立ち昇る淡いデオドラントスプレーの石鹸の香りと共に。

わたしは、夕方にきたドラ猫ダミ声おばさんの電話のことは一言も母さんには話さなかった。いえ、話せなかったのだ。母さんのため息や、グチや、泣き声は聞きたくなかった。

これまでの経験上、わたしの見聞きした事実を母さんに伝えても、母さんにとって良い結果を招くことにはならないと知っていた。それどころか、母さんの気分をいっそうひどくし、わたしに言葉の暴力で当たり散らすのが常だったから。

母さんの精神状態が悪くなる=わたしは母さんのゴミ箱と化す。それはわたしが望もうと望むまいとだ。

   ◯                   ◯                   ◯

「もしもしカナタちゃんか
 大牧のおじさんだけどおかあさんいる?」

「すいません。どなたかわかりませんが母はいません」ガチャ...。胸がドックンドックンした。胃が口から飛び出すかと思った。誰が相手であろうと嘘をつくのには思い切りと吐き気がつきものだ。

知らぬはずはない。電話の相手はあの大牧のおじさんだった。
わたしは受話器を置いてキッチンへ行き蛇口をひねって直接水を口に流し込んだ。
少しずつ人心地がついてきた...。

わたしは、大牧のおじさんのこと忘れたかった。大牧さんのことをいなかったことにしたかったのだ。

なぜなら、大牧さんが母さんに妻に先立たれた独り身だと騙していたからだ。
大牧さんの奥さんのお姉さんとかいう人から数回に渡って母さんについて非難めいた電話がきていた。そして、私はその事実を知った。
わたしは、その全てに対して怒っていた。

かと言って大牧さん相手に文句を言う元気も勇気もなかった。
ましてや大牧のおじさんは浮気がばれた心労の為かひと月ほど前に脳卒中で倒れたと聞いてたし。

わたしにできることと言えば、大牧さんを知らないことにするくらいだった。
人の存在をなかったものとすることはわたしにとっては最大の復讐だった。

それからしばらくして、もう一度大牧さんから電話がきた。わたしはその時は何も言わずに淡々と電話を切った。それが中学1年の秋だった。その時は手の震えもなく何にも感じなかった。

そして、それ以降は、いったいどういうわけだったのか2度と大牧さんから家に電話が来ることはなくなった。

わたしは内心ホッとしていた。

もうこれで、大丈夫。
少なくとも母さんのために良い母娘を演じる必要がなくなった。

今までは大牧さんが来るたびにそうやっていた。
わたしはまるで子役専門の劇団ナントカばりの演技派の子役みたいだった。
「よろしくお願いしまーす」
「劇団さるまわしのカナタです」

  ◯                    ◯                   ◯

母さんは居間に2つの布団を並べて敷いた。
「さあ、横になりましょう。一緒に逝くのよ」
わたしは、いつも寝る時みたいに自然に布団にもぐりこんだ。

意味がわかんない。何で?
喉がギューっとなって息苦しい。

「カナタあなたを残していくわけにはいかないのよ
わかってね」

わ か ら な い…

心の中でわたしは呟いた。
いったい、なにがあったというのか。

なぜ 母さんは、わたしを道連れに死んでしまおうとしているのか?

わたしは、一人で生きていくわけにはいかないんだろうか?

母さんは、母さんでわたしはわたしじゃないのか?
そうか、わたしはわたしじゃない….んだ。
だから、こうやって2人は布団の中にいるんだ。

臭いなあ。この匂い知ってる。
嫌いなんだよね、この古い洗剤のような人工的な柑橘系のにおい。こないだインスタントラーメン作る時にお湯が鍋から吹きこぼれて同じ匂いがした。
誰だよ、これがレモンの匂いとか言ってた人は。
レモンはもっといい匂いだ。兄さんとコンサート帰りに必ず寄る喫茶ヴィヨロン。レモンの香りはあそこで飲むレモンスカッシュのようにジャンプしたくなるような匂いだよ。

なるべく匂わないですむように口で呼吸をする。
母さんはガスの元栓を開け放したらしい。

わたしは
目をつむって色々な人、数少ない友だちや担任の先生や今までわたしに優しくしてくれた人たちの顔を浮かべては、感謝とお別れの「さよなら」を伝えた。

それから、学校のこと考えてた。
学校はあんまり好きじゃなかったけど。家にいるよかは、マシだったな。
もう給食のフルーツ牛乳を飲むことはないんだろうな余ったフルーツ牛乳遠慮しないで飲めば良かった。

そういえば
新しくできた平和動物園まだ行っていない。
パンダちゃんをひと目でいいからみたい。あ そうだ。もうすぐ5年生は遠足で平和動物園に行くんじゃなかったっけ。残念すぎる。

ーつづくー
#小説 #ヤングケアラー #毒親育ち  

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