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会社を辞めると宣言した彼女は。


「6月末でこの職場辞めます!」

先日、職場の後輩がそう私に告げた。
彼女は、つい最近まで、「私は何がしたいのかわからない。」そう言いながら、ぐるぐると終わりなき迷路の中をあてもなくさまよって、まるで、一生生理2日目が終わらないみたいな浮かない顔を浮かべていたのに。

「6月末でこの職場辞めます!」

そう言った彼女の顔は、まるで雲ひとつない青空のように快晴で、晴れ晴れしかった。
迷路のゴールが見えたのかと思って尋ねてみたけれど、そういうことでもないらしい。
まだまだ20代がはじまったばかりの彼女は、自分のやりたいこと、可能性を探るために1歩を踏み出すらしい。
自分が何に位置するのか、自分がどこに属するのか承認欲求という名の恐怖を何も感じさせない彼女の顔の天気は快晴だった。

「この職場辞めます!」

私は何度そう潔く言葉を放った人たちの背中を見送ったのだろう。
もちろん転職をすでに3度も経験している私自身がその言葉を放ったこともある。
けれど、頭の中に印象深く刻まれているのはいつだって、その言葉を潔く放った人たちの小さな背中だ。
「そんなに急いで決めなくても。」そうやって引き止める役割を立場上担うことになったこともある。

けれど、その言葉の潔さに基本的に二言はない。そうやって、くるりと向けられた小さな背中は、もっと小さく、さらに小さくなって、やがて見えなくなって、私に大きな余韻だけを残して消えてしまう。

「私は一体何をしているのだろう。」と。

その余韻の威力はすさまじい。
その背中が見えなくなったとき、取り残された私は1人。
まるでさっきまでの雲ひとつない青空に、突然真っ黒い入道雲が現れて、ざざざーっとスコールが降ってくる中に1人、傘もささずに浮遊している気分になる。


「仕事」というものは、ブラックホールみたいだと私は思う。ちゃんと自分自身で距離を管理していないと、気づいたら飲み込まれて、目の前が真っ黒になってしまう。

働き方改革が進んでいる昨今の世の中において、「仕事とプライベートの両立」という言葉がいろんな角度からいろんな人たちによって叫ばれている。
叫ばれたところで、その理想と現実の距離感にいささか違和感を覚えることが私はよくある。

「〇〇さん、この資料も今日までにやっといて!」

「承知しました!」

そう言って本日のタスク一覧に黒のボールペンで「プレゼン資料」と書き込むことと同時に「プライベート」の「プ」の字が消えた。

「ごめん、この会議の参加も追加でお願い!」

「承知しました!」

「16時の会議」と書き込むのと同時にまた次は「プライベート」の「ラ」の字が消える。
そして最後の「ト」の字が消されたとき、私の生活は、いつのまにか仕事で埋め尽くされている。
働くことは生きるための手段の1つでしかなかったはずなのに、働くために生きているみたいな感覚に陥って、気づいたときにはもう、自分が本当は何をしたかったかなんて、とうの昔に忘れ去られて、ただただ、毎日朝から晩まで働いている。
目の前が黒い。何も見えない。そうなったとき、すでに飲み込まれてしまっている。


「これ、〇〇さんにやらせといて!君から頼んどいてよろしく。」

「この仕事って、あなたの業務ですよね。〇〇さんに頼むのは違うくないですか?」

と言おうとして私は口を閉じた。彼は上司であり、私は部下であり、異論を唱えることはできない。たとえ、それが、自分が生きてきた中で養われた「自分の責任は自分で果たす」という正義であったとしても、それはここでは通用しない。


「この案件、ここに書いている条件で先方に提案しといて!」

「これって、明らかに相手に不利な条件じゃないですか。」

と言おうとしてまた、私は口を閉じた。
「相手に優しさと誠意を持って接する。」そうやって人生で培ってきた私の正義が揺らぐ。
ビジネスの世界において、正論は通用しない。それがどんなに悪どく、汚いやり方であったとしても、私はそんなやり方を正義としている組織に所属し、お金をもらって生きている。
ぐるぐると考えれば考えるほど、そもそも正義の定義ってなんだったっけ。目の前が真っ黒になって何も見えなくなる。
何も見えなくなったとき、自分の正義はすでに形をなくして、いつのまにか飲み込まれて、あんなに最初は抵抗のあった会社の正義に怒りを通し越して、違和感すら抱かなくなっている。 


「6月末でこの職場辞めます!」

そう宣言した彼女は
「自分のやりたいことが何かを時間をかけて探したいんです。」
「私はこの会社のやり方に、怒りを覚えます。ありえない。」

そう言って、飲み込まれかけていたブラックホールの中から必死に抜け出そうともがいていた。
その横で私は思う。


私だって自分のやりたいこと、自分の正義を大切にして生きてきた、生きてきたはずなのに、私は一体いつのまに飲み込まれて、どこにそれを置き去りにしてしまったのだろうかと。

「6月末でこの職場辞めます!」

そう言った彼女の顔は、まるで雲ひとつない青空のように快晴で、晴れ晴れしくて、くるりと向けらた背中はまだ大きくて、手が届きそうな位置にあって

「待って!」

そうやって、その背中を追いかけようと、私は走り出した。

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