見出し画像

ワンクッションと観察と。

前回noteでは、ある物事を
「好き」か「嫌い」かで分けるのではなくって、
興味が「ある」か「ない」かで分けたい、そして、
興味がないことについては、
興味を持てたい! と、思おうとしたい、
とのように申しました。
このことはね、でも、たとえば、
あらゆることに対して興味を持ち、なおかつ
じぶん自身の「嫌い」という感情を排除できたい、
的なことではなくって。
説明するとすれば、なんて言うんだろう?
うまく言えなさそうな気もするんだけれども、
どちらかと言うと、そういうような
積極的な感じじゃあなくて、もっと
消極的に考えようとしているように思える。

つまりはさ、物事を
「好き」か「嫌い」かで分けるとなれば、
そこがもういきなりゴールとなってしまって、
感情の身動きも取れなくなってしまう。
でも、興味が「ある」か「ない」で分けて、
かつ、興味がない物事に対して
興味を持とうとするならば、
そこはまだゴールではなくって、
ワンクッション置ける、というか。
前回では「判断を留保する」と申したのですが、
それはさ、つまり
「道半ば」の状態なんだから、まだ
いかようにも身動きも取ることができる。

そして、この状況における
「興味を持つ」ということは、
そこからすこしだけ距離を取りながら
ある対象を観察することでもあるからこそ、
ある物事を、もうすこし
客観的に見ようとすることもできるやもしらない。
そういうような、つまり、言うならば、
じぶん自身の身を守るための方策として
「興味があるかないかで分ける」
という考え方なのかもしれないな。

今回のことはね、前回noteの
補足として記してみたのだけれども、
まったく具体的には書けなくって、
あまりにも抽象的で、非常に
わかりにくいともぞんじますが、なんだか
こういうようなことを考えてみたんだった。

たとえば、言い換えるとすれば
「わかる」ことはとっても大事なのだとしても、
「わからない」こともね、どうしても
考えてもわからないものについては、
わかった気になるよりかは
「わからないままで居続ける」というのも、
ある意味では大切なのやもしらない。
それもこれも、いわば、つまり
じぶん自身を守るために必要なのかもなあ〜。

令和6年5月12日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?