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226 なにもしたくないとき、なにをするか?

コスパもタイパも虚しい理由

 前回こういうことを書いた。

 ところで白状するのだが、私自身はコスパとかタイパをあまり重視していない。コスパのよさもタイパのよさも、その瞬間だけのことで、少し俯瞰で眺めると、おかしなところにコストをかけていたり、どうでもいいところに時間をかけていたりする自分がいるからだ。
 その瞬間だけコスパがよかったとしても、その瞬間だけタイパがよかったとしても、結果、私の財布や時間にとっては、大した影響を及ぼしていないことが多い。あくまで私の経験値だけど。
 だいたい対パフォーマンスでなにかを測定することが、苦手である。そういう競争社会から距離を置こうとして今日まで生きてきたからだ。もちろん、なにかを評価するには物差しが必要になる。その意味でコストや時間とパフォーマンスを対比させるのはありだと思う。
 ありだと思っているのに、私自身としては、それをまったく信用していない。
 それは、今日のタイトルにつながるのだが、「なにもしたくないとき」があるからだ。これに陥ったとき、コストも時間もパフォーマンスも関係がなくなる。ゼロを掛けたら、なんだってゼロになってしまう。なにもしたくないときは、コストも時間もゼロを掛けるのでゼロだ。
 私はこのゼロが好きなのである。それを人は「怠け者」と呼ぶ。

本当になにもしないのか?

 さらに悲しい事実がある。
 私は「なにもしたくない」ときこそ「なにかがしたい」のである。矛盾している。なにもしたくないなら、なにもしなければいいだけなのに、「なにもしたくないから、なにをしようか?」と考えてしまう。
 ゼロを掛ける相手を選ぶのである。どうせ、ゼロになっちゃう。だけど、このなにもしないときだからこそ、それをゼロにすることに意味があるんじゃないだろうか。
 たとえば今日だ。このタイトル「なにもしたくないとき、なにをするか?」を書いたとき、本当になにもしたくなかった。
「あー、きょうはなんにもしたくないな。昼食べたら昼寝しようかな。寝るのもなんだな。テレビは見たくない。ドラマもバラエティーもいらない。だいたい早朝にMLBを見て大谷が2発もホームランを打ったので、もうこっちは虚脱状態で、これ以上、なにを飲み込んだって何も感じないだろう」とか思っている。
 なにもしたくない日は、ゼロを掛けるので成果(パフォーマンス)はゼロだ。でもよく考えてみれば、なにもしたくない日以外の日でも、たいがいパフォーマンスはゼロに近い。ゼロかもしれないし、少しだけプラスかマイナスに寄っているかもしれない。大幅になにかを得られるような日は、まずないのだ。
 そして今日はたまたま、なにもしたくない日について書くことを思いついたので、こうしてnoteに書いている。これは成果ゼロの報告書である。文字数はすでに1000字を超えているのに、成果はゼロだ。ゼロでいい。
 ほかの日はどうだろう。「なにもしたくないなー」と思ったとき、なにをしているだろう。振り返ると天気がよければ歩いている。ともすればイスに座って何時間もPCをやっていたりしてしまうわけで、なにもしたくないときぐらい、イスから離れたい。ぶらぶらと歩くのだ。スマホの万歩計アプリを使っている。1万歩はとてもムリなので5千歩とか7千歩でいい。
 なにもしたくない日でも本は読めるときがある。読書は不思議なもので、夢中になって字を追って読んでいても、成果ゼロのときがある。いや、成果ゼロでいいのだと私は思っている。毎日の読書から少しでも利益になるような何かを得ようとするなんて、私にはとてもムリだ。そんな読み方はできない。
『源氏物語 A・ウェイリー版』(紫式部著、アーサー・ウェイリー訳、毬矢まりえ訳、森山恵訳)は、いま2巻目の「薄雲」を読んでいる。25%ぐらいまで到達しているが、この調子で年内に4巻読み終えたいとは思っている。それでなにが得られるのか。私はそれを少しも期待していない。読む意欲は、得られるリターンに比例しない。ゼロでもまったくいい。
 もう少し、なにもしないでいよう、今日ぐらいは。

まだまだ先は長い。



 

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