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やはりアニメ・漫画の研究や批評の水準が低いと感じざるを得ない『アニメーションの映画学』『まんがはいかにして映画になろうとしたかー映画的手法の研究』

昨日の記事で「アニメーションに関してはこんな三流インテリでも批評家を名乗ってしまえるくらいに文化としての土壌が貧しいマイナーなジャンル」と書いたが、他にどんな人が研究・批評を行ったか調べてみた。
代表的なのはまあ宇野常寛以外だと他に大塚英志・東浩紀あたりが挙げられるが、実は『ブレードランナー論序説』の加藤幹郎も何冊かアニメ・漫画に関する考察の書物を残している。
その中でも比較的マシな方だと思われる『アニメーションの映画学』『まんがはいかにして映画になろうとしたかー映画的手法の研究』を図書室で読んでみたが、これが実に面白くない
確かにアニメの技術論に触れながらその美術が見る者の感性をどう揺さぶるのかに関する客観的根拠を論証しようとはしているし、大塚英志も漫画編集をやっていただけあって漫画のコマ割りなどの解説はなかなかに水準が高い。

だが、それでもやはり研究・考察の書物としての水準は低いと言わざるを得ないだろう、宇野常寛よりはマシだけれども及第点といえる程の出来栄えかと言われればそうではない
そもそも加藤幹郎の書物からしてそうなのだが、例えばロボアニメに関する以下の文章なんかは明らかに研究不足であるといわざるをえない。

原形質とは無縁な固形物で構成されるべきロボットアニメにも触手のモチーフは存在する。『超時空要塞マクロス』(一九八二〜八三)の誘導ミサイルは触手を伸ばすかのような航跡を残しながら標的を追尾するし、『機動戦士ガンダム』(一九七九〜八〇)には実際に触手を伸ばして四方八方から相手を攻撃する兵器が登場する。

『アニメーションの映画学』47ページ

確かに書いていることは間違っていないのだが、「ガンダム」と「マクロス」の間に位置する『伝説巨神イデオン』(1980)の存在を無視して板野サーカスに言及することなど決してあってはならない
加藤が指摘している「ガンダム」の実際に触手を伸ばして四方八方から相手を攻撃する兵器とはジオングのことだが、確かにジオングの触手攻撃は特徴的な攻撃の1つだが、それが全てではないのだ。
そもそもガンダムとジオングの戦いのミソはそこにあるのではなく、まずガンダムがMA並の巨大MS(しかも足がない不完全版)に一騎討ちを挑み、最後は頭だけが残っているジオングと頭と左腕以外が残ったガンダムで対比となる。
そしてラストシューティングのカットを挟んでロボット戦から生身の白兵戦へ縺れ込むところが一連の運動の魅力なのであって、触手がどうとかいったことではないし、しかもそれが男根の隠喩かどうかなんてのも的外れだ。

板野サーカスの追いかけてくる無数のミサイル攻撃だってその大元を作ったのは「イデオン」のミサイル全方位発射だし、更に触手でいうなら惑星1つを楽勝で切り裂いてしまうイデオンソードも触れずにはおられない。
富野由悠季を語る上で「ガンダム」はもちろん「イデオン」は何よりも外せないのだが、それに対する言及がない時点でやはりアニメーションのショット分析としては不足しているであろう。
他にも宮崎駿や新海誠、またディズニーやピクサーなどといった世間的な認知度の高い作品はそれなりに出している割に、押井守や細田守への言及がないというのはどういうことか?
押井守は『ビューティフルドリーマー』でその作家性を確立し、以後アニメーションを用いて「映画的なるもの」をどれだけ表現しうるかの限界に挑んだ作家として著名だ

また、細田守にしたって私はさほど高く評価しているわけではないが、『デジモンアドベンチャー』で演出家としての頭角を現し『時をかける少女』でアニメ映画作家として評価されている。
そしてまた、「アニメを映画にする」という点でいうならば、「あしたのジョー」を映画にしてみせた出崎統の名前もきちんと出しておくべきなのだが、それに対する言及が全くない。
かの押井守ですら影響を受けたアニメ作家の1人として名前を挙げているというのに、これに加藤幹郎が触れていないのはやはりまだまだ日本アニメに対して研究不足ではなかろうか。
大塚英志に関しても同じことがいえて、手塚治虫や石ノ森章太郎、白土三平に触れている割には横山光輝や藤子不二雄辺りへの言及があまりないし、また大友克彦への言及はあっても鳥山明への言及がない。

2人とも「アニメと映画」「漫画と映画」という別々のアプローチからの研究・批評をしようという志は伺えるし、それ自体は大変立派なものだが、まずもって研究の網羅性が低すぎる
加藤幹郎は映画に関する批評・研究では素晴らしい書物を残しているにもかかわらず、アニメーションのことになるとこうして馬脚を現してしまう。
また、大塚英志も同じように「物語」という観点や「モンタージュ」「リバースショット」といったものに言及しているのはいいが、それが見る者の感情をどう揺さぶるかの言及がない。
たとえば小津安二郎の『東京物語』(1953)の原節子がなく所のくだりなど、確かにあれは唐突で何度見ても衝撃だが、大塚英志はこれを「物語」として唐突だと論じている。

話が違うであろう、あの原節子が泣き伏せるシーンは物語から完全に浮いたショットそれ自体の力によってそれまでの流れが断絶してしまうというところにある。
何より、『麦秋』(1951)で嫁入り前に1人きりで泣き明かしたショットを超えた何か見る者を拒絶するような、寄せ付けない感覚すらあのショットには存在していた。
そういう孤独性のようなものを大塚英志は論じていないし、また小津安二郎の名前に石ノ森章太郎が生前言及していないことと無理矢理結びつける牽強付会の論調には頭を抱えるほかはない。
結局のところ加藤にしろ大塚にしろ、単なる文献研究や資料のアレンジの領域から抜け出ない書物しかアニメ・漫画に関してはないというのがこの2冊を読んで感じたことだ。

同じサブカルチャーでありながら、映画の方は産業が斜陽化こそしたものの、やはりまだ根強く作品も批評も息づいているし、今でも十分に水準の高い批評や研究・作品が揃っている。
しかし、アニメ・漫画に関しては市民権も得ているし作品自体は十分に水準高いものが揃っているのだが、批評や研究が全くといっていいほど追いついていない
まあそれは特撮に関しても同じなのであるが、別に学問にしなくてもいいし理論書なんて必要なのだが、もうちっと読者がハッとするような斬新で面白い視点の批評・考察はないものか。
そりゃあ押井守のような作り手視点で語られる批評の方が説得力があるかのようになってしまうのも無理はない。


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