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「地球が太陽を1周するのが365日です」とか知らねえよ。公転とかいう謎の概念で決めらた1年という単位で人生をコントロールされるな。仕事はいつでもやめていい という話。

1月と4月は 心機一転という感じがするけど、4月〜12月、あるいは 4月から3月までを "1年" という単位で、一息に走り続けないといけないというのは、どう考えても長すぎでしょ。

「地球が太陽の周りを1周するのに 365日かかります」とか知らねえよ。そもそも「地球の公転 1回分」とかいう謎の概念で、人間様の基本的な活動期間を決められるのって、意味不明じゃない?長えよ、長すぎる。太陽一周くらい 3ヶ月でやれや、地球。

Jリーグは、2月から11月がだいたいシーズンだけど、僕が Jリーガーとしてのピークを迎えていた2018年は、正直 8月くらいにはやめたくなっていた。もちろん、お金をもらっているし、責任というものがあるので、僕は僕なりに精一杯 やり切ったつもりではいる。だけど、それは、僕の人生のQOLとはまた別の話だ。

特に、サッカー選手という職業は、1年間という単位に縛られまくっている。まだビジネスの方が「4半期」とか「中長期」みたいな発想が一般化しているけど、サッカーはマジで、1年の、一発勝負。何が言いたいかというと、サッカー選手に限らずだけど、もし、気分が変わったり、気分が悪くなったときにどうすればええねんということ。

4月から新生活をスタートさせた、学生・社会人、あるいはアスリートのみんな。1年という単位に縛られるな、やめたくなったら、いつでもやめていいぞ。地球の周期より、てめえの周期を優先しろ。

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僕は、Jリーガーとして軌道に乗り、お金や立場を手にした24歳の冬に、Jリーガー人生を強制シャットダウンした経験がある。今でも、あの決断は悪くなかったと思っている。一つの、僕の成功体験。

しかし、世の中の人々、やめることに対してネガ(ティブ)すぎじゃない? やめることは、別に "良いこと" ではないけど、じゃあ 続けることが "良いこと" なのかと聞かれるとそれもまた違って、ただただこれは 持っておくに越したことのない "選択肢" の話ではないだろうか。

ということで、仕事をやめるための作戦を考えましょう。

1/ やめたいけど、やめたくない

「やめたい」のか 「やめたくない」のか わからず、狭間にいて、苦しいときがある。これは、感情(感覚)と行動の粒度が違うことに原因がある。

感情(感覚)は数百、数千とか、まあ言ってしまえば無限に種類があるという意味で粒が細かい。けど、行動は、現実的に選択できる範囲では数種類くらいしかなく、粒が荒い。なので、当然だけど、個別の感情(感覚)に、必ずしも行動は対応しないことになる。

それでも、僕たちは、感情(感覚)を原因にして 行動を起こすというモデルを採用できている。このメカニズムはどうなっているのか。

私たちの多くが空腹を自覚するのは、空腹感と関係のあるものとないものを無意識的に振り分け、空腹感と関係しているものだけに絞り込み、『空腹感』としてまとめ上げられているときだと言えるでしょう
『責任の生成: 中動態と当事者研究(國分 功一郎, 熊谷晋一郎)』

人には、例えば「頭が痒い」「誰かが話しかけてきた」とか、常時、無数の入力がある。その中でも、例えば、空腹に関係のある「お腹がギュッとなる感じ」「口から唾液が出てくる感じ」というものに "絞り込み" 「これは空腹という状態だ」というように "まとめ上げ" て、行動(食事)をしている。やってることは、実に高度である。

この作業には、先天的な得意不得意があって、個々の入力に対して向き合いすぎる人は、それを適当なカテゴリーに分けて、絞り込んだり、まとめ上げたりできず、したがって行動もできず、その場でフリーズするらしい。

僕たちが抱える、葛藤「どうすればええねん状態」も、こういう状態になっていると思う。「なんか やりたくない」とか「なんか 違うことしたい」とか、確かにそうした感覚はあるけれど、それを「やめたい」という行動に関係のあるものだけに 絞り込み、まとめ上げるということが、この場合は経験不足で上手くできない。だから 立ち尽くすことしかできず、"ただ感じて" てしまう。

そういうとき、どうすればいいか。対処法ということにはならないんだけど、耳をすませて、それを "ただ感じる" ことが大事だと思っている。僕たちは歳を重ねるにつれて、細かい感覚の粒子を、何かしらの一塊にして認識してしまうようになる。「ああ、これは、こう行動すればいいやつだ」と、ほぼ自動的に、既存のボックスに振り分けていくわけだ。これは、生き方が上手くなっているとも言えるし、他方で、世界をありのまま新鮮に捉えることが難しくなっているとも言える。

「どうすればええねん状態」は辛い。けれど、それは貴重な体験でもある。きっと、どこかのタイミングで "まとめ上がって" 行動できる日が来るはずだ。それまでは待つ。傘をさすこともせず、降りかかる雨粒をただ浴びてみてもいいのでは。くれぐれも、体調が崩れない程度に。

2/ 逃げたくない

やめることが、逃げることだとすれば、そりゃ「逃げたくない」とも思ってしまう。

ありがたいことに「やめることは、逃げることではないよ」と言ってくれる人もいる。退職代行のサービスとか「好きなことして生きていく」とか、世の中は(特に仕事)をやめることに、寛容になりつつあると思う。

それでも、Jリーガーをやめたことを振り返るたび「逃げてしまった」と思い、ほとんど同時に「いや、逃げてはいない、これは挑戦だ」とか、脳内で検証委員会が行われていた。最近は、久しく開催されていない。

人が「何が現実か」を定めるとき、常にそれは、あるひとつの文化の伝統から話しているのだということです。確かに何かは起こりました。けれど、それを描写するには、ある特定の文化の観点を通さざるをえないのです。(中略)たとえば、「彼のお父さんが亡くなりました」ということを描写しようとすると、普通は生物学的観点から語ることになります。ここで私たちは「起こったこと」を「特定の身体機能の停止」として「構成」しているのです(中略)。他の文化的伝統においては、「彼は昇天しました」とか「彼は彼女の心の中に住み続けます」とか、「これは彼の生まれ変わりの新しいサイクルの始まりなのです」とか、「彼は苦しみから解き放たれました」とか、「彼は、彼が残した功績という遺産の中に生き続けます」とか、「彼の3人の息子たちに彼の人生は引き継がれます」とか、「この物体の原子構成が変化したのです」などと語られるかもしれません。
『現実はいつも対話から生まれる(ケネス・J・ガーゲン, メアリー・ガーゲン)』

今も Jリーグに残っている仲間たちからすれば、僕は「Jリーグから離れる人」であった。ここには「逃げた」という側面を見ることもできるかもしれない。他方で、ビジネスパーソンたちにとって、僕は「ビジネス界に飛び込んできた人」であり、迎え入れるべき対象として、僕や僕の選択について思考している。そして、僕の母親は、僕の健康状態にしか興味がないので、僕と彼女の二者間において、この話題は「次の職場でも息子(僕)が健康でいられるかどうか」という観点しか存在し得ない。

何が言いたいかというと、まあ、厳然たる事実・現実 だと思い込んでいたことにも、様々な見方があるということですよ。やっかいなのは、それに気づくことができるのが、 他の「文化の観点」を持つ人と交わったとき、つまり、往々にして "やめたあと" であること。だから、これに気づけていなくても、きっと やめてから気づけると踏んで、あとは勢いが必要かもです。


3/ レールから外れのが怖い

人間は動物である。動物だったという表現が正しいかもしれない。だから、動物としてのリスクである "飢え" を回避するために、何事もカロリーを節約をする方向で駆動する。それは身体だけではなく、脳、認知においても同様である。"微妙な差分" とか "どちらでもない" とか、そんなことを考えるのは疲れるので、森羅万象を 0か100か で判別するシステムを搭載している。動物としてはOKなんだけど、複雑な人間社会で意思決定をする上では、それがエラーになる場合が多々ある。

「周りの人と違うアクションをする」=「社会のレールから外れる」だと思ってしまう。まさにこれは 0が100か の発想。僕もそうだった。Jリーガーになるとき、同世代の99.9%が普通に就職していく中で、"普通に就職すること をやめて" 、縁もゆかりもない徳島県に、2年とか3年とかの契約期間で、ショービジネスの踊り子として生計を立てていくなんて「これは完全にレールから外れる決断だ」と思った。

しかし、蓋を開ければ、現在の僕はサラリーマンで、バリバリ資本主義社会の本流にいる。起業して失敗したやつも、転職を繰り返しているやつも、地方に移住したやつも、ほとんど俺と変わらないし、特に問題なさそう。

レールから外れるというワードは、物騒すぎる。『今際の国のアリス』で、異世界に飛ばされたが、そこが気に入りすぎて、現世に戻らないという誓いを立ててる意味で 顔面にタトゥーを掘った長刀使いがいたが、あれくらいしないと、レールからは外れられない。

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※ 例

会社やめるとか、会社かえるとか、それはレールから外れるというより、レールの上で、行き先をかえるだけのことだ。社会がひいているレールは強靭。心配すんな、外れようと思っても、外れられないようになっている。

4/ それでも決心がつかない

それでも決心がつかないのであれば、続けていいと思う。重要なのは「いつでもやめれる状態」をつくっておくことだ。

社会契約論以来、人は、生まれたときから社会と契約しているということになっている。個人は、システムを運用していくために活動し、はじめてシステムの恩恵を受けることができる、ということになっている。つまり、個別最適化された人生とか、その設計図を書くための時間とかは、基本メニューに入っていない。

そして、人間の認知には、現状維持バイアスというものがある。地球には、外部から力を受けない物体は等速度運動を続ける 慣性の法則というものがある。

"かえる"とか "やめる" というのは、社会学的も、行動経済学的にも、物理学的にも、難しいんっすよ。だから「やめても大丈夫」「やめてもやりたいことがある」くらいで、はじめてバランスが取れるし、バランスが取れているからこそ、"やめずにやる" という行為に推進力とプレゼンスが宿る。これは、僕が常々論じる、サッカーしかできないし・知らないという状態でやる「消去法的フットボール」に対する批判でもあります。

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でも、みんな、なんやかんや やめずに 1年間 頑張っちゃうでしょ。僕もきっとそうだと思います。やるならやると決めて、気合入れていこうぜ。やめるのは、いつでもできるで。

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