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元アスリートの僕たちは次の世界でいかにして幸せになるのか?いくつかの間違った前提と対策と極私的現状報告

4月、新しい季節です。何かをやめて 何かをはじめる人がたくさんいると思います。僕はというと、2018年でJリーガーをやめて クリアソンへ。 そして 2021年の12月を最後に 今度はサッカーをやめて 約1年半が過ぎました。

©︎TOKUSHIMA VORTIS

僕は、僕の好きなタイミングでプレイヤーとしてのサッカーを手放しました。その身勝手さもあって、新しい人生を歩き出した好青年であらないといけなかったわけですが、無論、全部が全部 最高ハッピーというわけではありませんでした。むしろ、闇堕ちしていたと言っても過言ではないと思います。

そこで抱えていた諸々が言葉になってきたので、自戒も込めてここに記録しておきたいと思います。そしてこの記録が、元アスリート、あるいは これまでの人生に区切りをつけて新しい世界に飛び込んだ人たちにとって、意味あるものになることを期待しています。

いくつかの間違った前提

未練がなくなる

よく「サッカーやりたくならないの?」と聞かれます。そりゃ、その聞きかたであれば「やりたいです」に決まっています。

しかし、僕のやってきた本気のサッカーは、ただ好きなときに集まって、好きなだけやることを意味しません。

他のことを犠牲にしてトレーニングに励むこと、同じと思われることを繰り返し続けること、寝ても覚めてもチームのことを考えること。僕にはもうそれができなくなった。やめた人はみなそうでしょう。

だから、楽しい記憶だけを思い出して、酔った勢いで元カノに連絡するのはナシです。本気のスポーツは生活であり、恋愛ではありません。うれしい!たのしい!大好き!では運営できないのです。

未練があるかないかとか、好きか嫌いかとか、そんな単純ではないのです。嫌いになったわけじゃないけど、お別れしたのです。

スポーツに勝るものが現れる

あるわけないんです。そんなものは。スポーツはスポーツ、それ以外はそれ以外です。僕はこれをスシ・カレー理論と呼んでいます。

スシにはスシの魅力があり、カレーにはカレーの魅力があります。それなのに、"えんがわ"を食ってるときに「スパイシーな刺激が足りない!もっと味が濃くて 腹に溜まるものを!」と騒ぎ立てるようなものです。そんなやつ出禁です。

お気づきの通り、スポーツはカレーであり、脳に直接クル系です。絶対最高。他方、仕事をはじめ それ以外のものは だいたいスシです。えんがわであり 赤貝であり 芽ねぎです。しみじみ旨さを感じる系であり、それはそれでめちゃくちゃ旨いんです。カレーと比べるな。

自由になることは素晴らしい

スポーツを離れると、全体的に自由になります。例えば、好きなときに好きなものを食べられるようになります。こんなに楽しいことはありません。一方で、サッカーをやめてからの僕は「どれくらいお酒を飲んでいいのか」が分からなくなりました。

これまでお酒はオフ前に限ってでした。それは誰かに強制されたわけではなく"常識" のようなものでした。しかし、その "常識" が取っ払われた以上、お酒が好きな僕は 毎夜 飲みすぎないように自分自身で制御しなければならなくなりました。めっちゃ疲れます。


お酒を我慢する人のイラスト(男性)

時間もたくさんあります。しかしお酒の問題と同じように、この時間もすべて自分の手によって生産的なものにしなければなりません。それはとても難しいことです。だから、時間を無駄にしてしまったという自己嫌悪に苛まれます。自由になることが必ずしも素晴らしいかというと、そうとも限らないということです。

では、どうすればいいのか

闇として抱えておく

もう、こじらせているんですね。長年スポーツばっかりやってきた人なんて全員。だから、みんな引退したあとは 結構 しんどいんじゃないかなと思います。

残念ながらここまで書いてきたことは、ほとんどの人に理解してもらえません。みんなの関心は、元アスリートの昔話、または その元アスリートに就職先があるかないか です。

なので、こうなったら もう闇として抱えておくというのがいいではないでしょうか。

アスリートだった過去を、"美しい思い出"のフォルダに入れておくと、ふとアルバムをめくり懐かしむしか使い道がありません。そうではなく、村上春樹的に言えば井戸の底になりますが、そこにその邪悪なエネルギーをNARUTOの九尾のように鎖をつけて飼っておくのはどうでしょうか。そして爆発的なパワーが必要なとき、何かを世に生み出すとき、そのネガティブなパワーを解き放つのです。

良い意味でヤバい仕事ができるやつは、往々にしてマイノリティであり、往々にして闇を抱えています。我々は そっち側にもいけます。それを闇として正しく抱えることができれば。

おもんなさの谷を越える

過去と決別し、新しく出会ったものを愛しましょう(啓発本のような言い回しを気に入っています)。ただし「おもんなさの谷」というものに注意してください。

新しいことをはじめたとき、最初はだいたい おもしろいです。新しいからです。僕もそうでした。新宿に来たとき、仕事をはじめたとき、なんかわからんけどおもしろかった。しかし、緩やかに右肩下がりにつまらなくなってきます。飽きるからです。シンプルです。これがおもんなさの谷です。

そこで粘れば、きっとその仕事の面白さに気づくことができます。しかし、この谷底にいるときはしんどい。最初からおもしろくないほうが良心的だと思うんですが、めんどくさいことに、上げて落とされます。

そのとき思うわけです「ああ、前の彼女はやっぱ魅力的だったな」と。そして、こうも思います「別れたのは間違いだったかもしれない」「今からでも やり直せるだろうか」と。

でも、電話しちゃダメです。せっかく決別したのだから、その決断をいたずらに否定してはいけません。今はその仕事の おもんなさの谷 にいるだけです。我慢して身体を壊さない程度に頑張っていると、少しずつ視界が開けてくるはずです。

サッカーもそうでした。何度 フェンスに向かってボールを蹴っても、遠くに飛ばせるようにはならなかった。おもしろくなどなかったはずです。でも向き合っていると少しずつ その「複雑さ」や「難しさ」というものを愛せるようになってきます。仕事もきっとそうです。

希望を見出す

たびたび 引用している クラシコム 青木耕平さんの『重要なのは希望』というエッセイがあります。

「100万円を持っていても、明日には無くなるとすればそれは不幸」「でも、1年後に100万円が入ってくるとすれば、それは幸福」「重要なのは希望だ」という内容だったと思います。

もちろん「今」は大事なのですが、その「今」を 現時点だけに区切って観測しても、意味はないということです。「今」が、どのような希望のもとに存在しているかということですね。

だから、何かの拍子に立ち止まってしまったときに、目の前にある「地味な仕事だな」とか「どうもうまくいかないな」とかに注目するのではなく、その先に どんな希望があるのか(あるいはないなら作るのか)を考えないといけません。

希望と言うと抽象的ですが、いくつかパターンに分かれると思います。

1. 出世のため
もしあなたが年功序列の出世を約束された会社にいるのであれば、ブルシットジョブ(クソどうでもいい仕事)の先に、出世という希望を据えてもいいかもしれません。

ただ、部長に "なる" みたいな目標はもれなくクソだと思います。よくある話ですが、重要なのは  何を "やる" かです。Jリーガーに"なる" が目標だった人も、だいたい失敗します。

なぜかと言うと、第一に、その "やる" は、部長にならなくても やれる可能性があります。であれば、数年とか数十年とかをかけてしょうもない出世レースに出馬するより、ベンチャーなり起業なり仕事以外なりで、もう少し急いで叶えたほうが良さそうです。

第二に、こっちのほうがヤバいのですが、部長になってから「やりたいことがなかった」と気づくのがヤバそうじゃないですか?「やりたいことができない」より「やりたいことがない」ことに50歳とか60歳で気づくほうが100倍 絶望を感じると思います。だから、そっちを考えることにリソースを割きましょうと。

2. 上達のため
アスリートは、何かを追求し上達していくことが得意だなと思います。

しかし、ビジネスは型化です。型化とは、追求なんてしなくてもできるようになることです。某巨大自動車メーカーに勤務する僕の友達が「この会社はすごい!何がすごいって、この会社の仕事は誰でもできる!」と言っていました。

「すごい」と「誰でもできる」は対義語ちゃうんかと思ったのですが、ビジネスの「すごい」とは規模を拡大することであって、すなわち「誰でもできる」ことなのです。

だから、追求し、上達することが面白くなってきても、次に求められるのは それをマニュアルさえ読めば中学生でもできる仕事にして、誰かに渡していくことです。そうしてマネージャーになっていくことです。

それに興味があるならいいんですが、上達という感じではなくなってきます。だから、自分の抱えている仕事の中で、型化することと、しないこと(=追求し上達し続けたいこと)を整理しておくのがいいかもしれません。

3. 社会のため
というと、偽善者のように聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。

僕は大学で社会学を学んでいたんですが、最初の授業で「社会学は社会の勉強をするが、それは世界全体のようなことだけではない。社会の最小単位は2人、つまり自分ともう一人いれば それは立派な社会だ。」と教授が言っていたのを覚えています(教授の名前は覚えていません)。

だから、自分が応援したい人のために修行をしていれば、それは社会のためだし、それは立派な希望になります。

20代前半と20代後半で変わったことと言えば、自分への関心が少し減ったことです。おそらく自分への投資対効果が下がるからです。大学生のころは、自分を磨けばあと60年くらい使えましたが、今はあと50年くらいしか使えません。今後 さらにそうなっていくことを考慮すると、この視点はゼロにはしないほうがいいかもしれません。

僕の場合

やっぱり、前提を払拭するのは難しいですね。こうして言語化できたところで、未練は残るし、スポーツに変わる何かが現れることを期待しているし、自由になったはずの人生を使いこなせずにいます。

だからせめて闇として抱えてエネルギー源とし、おもんないと感じても粘って、そして希望を持って生きていきたいと思っています。

いくつかある希望の中でも、まず出世みたいな世界観からは、ベンチャーに就職した時点でドロップアウトしているので、特に思うことはありません。

でかいビルで働くことに憧れることはありますが、午前をリモートワークにして六本木ヒルズのスタバとかで、そこのインフラストラクチャーにフリーライドすれば 一定 満たされることに気づきました。

次に上達です。これは僕の中で すごくあります。僕は、サッカー界では しばしばリーダーの役割をしてきたので、ビジネスでもマネージャーをしたいんだと思っていました。

しかし、コロナ禍と、あるいは携わっている仕事の性質もあって「自分が上達したい」「自分が完結させたい」という衝動が強く存在しています(まだ未熟だからかもしれません)。

もし、そうして仕事の多くを手放さずに、それでも価値を増やしていくためには、クオリティを上げてその道のクラフトマン(職人)になるか、複数の場所に顔を出すフリーランスになるかになります。マネージャーか、クラフトマンか、フリーランスか。3択ではないし、それらは 0 vs 100(ゼロヒャク)の問題ではありませんが、大きな方向性として自分はどこに向かいたいのかに、まだ結論は出ていません。

最後に、社会のためというのはいつも考えています。よく思うのですが、きっと、多くの社会活動家たちも「外車乗りたい」とか「合コンで見栄張りたい」とか思ってるはずです。何で儲けたかわからない若者がランボルギーニに乗っているのが東京の悪いところですが、そうした人たちのことを一切羨ましく思わないと言えば、それは嘘だと思います。高僧でない限りどうしても比べてしまうはずです。僕もそうです。

でも、少なくとも自分の仕事が社会の役に立っていると感じてさえすれば、実際のところどうであれ そうした俗っぽいものから解脱(げだつ)している"フリ"はできる。この"フリ"ができるかどうかで、なんと言うか、肯定できる人生になるのか、ランボルギーニに憧れ嫉み続ける人生になるのかが変わってくる気がします。だから、そういう自己防衛的な意味も含めて、僕は明確に、誰かの何かの役に立つ仕事がしたいと思っています。

・・・

現状、僕が思う人生のフレームはこんな感じかなと思っています。あとは、そこに何をはめていくか、どれくらい頑張っていくか。幸い、僕の手元にはサッカーと、今年で30歳(!)を迎える健康な身体があります。意欲もあります。とりあえず頑張ります。


PS.
ほしい物リストを置いておきます。ほしい物が届くのは、noteを続ける上での希望です。みんな、頼みますよ。


最後まで読んで頂き、ありがとうございました。