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スポーツはなぜこんなにもクソ憂鬱なのか。敗北について、またはそれらの責任は誰にあるのか。

いやあ、うまくいきませんね、本当に。全然うまくいかない。これは、人生というのはうまくいかないように緻密に設計されているんじゃないかと思うくらい うまくいかないです。

でもそれは勘違いです。人生がうまくいかないのではなく、スポーツがうまくいかないだけです。スポーツはうまくいかないことを生成し続ける装置ですから。

「する」でも「みる」でも「ささえる」でもこの際 どうでもいいのですが、とにかくスポーツなんてものに関わっている限り、この憂鬱から脱却することは不可能なのです。憂鬱とは何かというと、極めて単純ですが勝てないことです。負けることです。敗北です。

普通に生きていれば、敗北なるものに出会う機会はほとんどないように思えます。日常生活では何か紛争が発生しても、それは合議制だったり、譲り合いだったり、そもそも未然に防いだりされます。とにかく、大人同士が殴り合わなければならない事態をあらゆる方法を通して回避します。

しかしスポーツはというと、同じルールで同じくらいの力の(とされている)相手と、どちらかが倒れるまで殴り合うことでしかありません。スポーツ以外にも勝敗がつくものはたくさんありますが、その鮮やかさはスポーツほどではないんですね。スポーツの勝敗は鮮烈であります。

スポーツ以外で、こうして鮮烈に勝敗が現れるものに対して「スポーツ的だ」と評されることがあります。例えば、お笑いの賞レースとか。お笑いがスポーツに寄せているとかそういうことではなく、本稿での定義に基づいて言えば、極めてスポーツ的なレギュレーションでやっているということです。

令和ロマンが勝ち、ヤーレンズが負け、さや香はもっと負けた(僕は3組とも大好きです)。出順による客席の温度とか、攻めたネタをやったとか、スポーツよりも文化的な側面で救済の余地がありそうですが それでも鮮烈です。まあこうした一部例外はありますが、基本的にはスポーツはやはり特異です。

では「勝てばいいじゃないか」「そのために強くなればいいじゃないか」という意見もあると思います。しかし、そう単純ではないんですね。

まず 敗北がなぜこんなに憂鬱かというと、僕たちが単に「敗北」と言っているもの感じているものは、実は「勝利を得ることができなかった」ではなく「勝利を失った」というほうが実態に近いからだと考えます。同じように聞こえるかもしれませんが、同じではありません。

勝負をするからには勝つつもりでいいます。勝つはずでいる。これは油断しているとか そういう意味合いではありませんよ。あくまで勝負に臨む正しい姿勢として、知らずのうちに勝利というものを所有してしまっている。

人は自分が所有しているものの価値を高く見積もる傾向があります。投資の世界でよく言われるサンクコストバイアスとかそういうやつです。勝てば嬉しい/負ければ悲しいの振れ幅は本来同じはずなのに、この認知の歪みのせいで負ければ悲しいのほうがやや振れ幅が大きい。思い出に残りやすいということです。

つまり1勝1敗だと、プラスマイナス憂鬱ということです。この時点ですでに分が悪い戦い挑んでいるように思えます。

さらに、この係数は「勝つだろう」という期待の多寡によって決まります。例えばペップは昨年、プレミアリーグ最速269試合での200勝を達成しました。これはとんでもない数字ですが、一方で69試合の負けあるいは分けを経験しています。ほとんど勝っている中で逸した69試合は、その辺の奴らの勝てなかった試合よりも著しく憂鬱だったはずです。

つまり、強くなって敗北の回数が減少すればするほど一回あたりの敗北のダメージは増大するジレンマがあるのではないかと思うのです。この理論が綺麗な反比例の曲線を描くとすれば、ジョゼップ・グアルディオラも、メッシも、三苫も、僕も、君も、一年を通して等しく憂鬱を感じている可能性があります。

こうして、我々がどうしても逃れられない憂鬱の牢獄にいることが、ご理解いただけると思います。

スポーツさえやめてしまえれば、もうこんな思いをしなくて済むのです。選手を、スタッフを、サポーターをきっぱりやめてしまえばいいのです。スポーツで稼げるような健康な身体があれば、その職を離れたとしても食っていくには十分な仕事が見つかりそうです。サポーターの場合は、むしろお金を払って応援しているわけですから、もっといつでもやめられます。

それでも選び続けるのであれば、好き好んでこういう機会を選びとっているのだという自覚を忘れないようにしなくてはいけません。僕たちは間違いなく、そういう一つの極地にいるのです。その場合、やはり極地を生き抜くためのそれなりの装備のようなものが必要な気がするのです。

ここからがメインの論考になるのですが、ここでいう装備として一番必要なのは、この敗北との付き合い方だろうと思うのです。特に敗北の責任についての態度です。

負け(てい)ると、「責任」を明らかにする必要性に駆られます。しかし、この「責任」というものが一体何なのかということを、じっくりと考えてきませんでした。

何度か引用したことがありますが『責任の生成: 中動態と当事者研究』の一説にこうあります。

「僕らは不断に選択というものをしています。何をするのもすべて選択です。それに対し、意志というのは、後からやってきて、そこに付与されるものです。付与された後で、その選択が私的な所有物にされる。『この行為はあなたのものですね』ということにされる。」

國分功一郎, 熊谷晋一郎『責任の生成: 中動態と当事者研究』p117

ここでは基本的に人間の意志というものに対して懐疑的な立場をとっています。意志というのは曖昧で、ただ選択だけがある。しかし、その選択が誰かの意志によってなされたものであるということにする。そうしてはじめてそこに責任を求めることができる。なぜ責任を明確にする必要があるかいうと、何か問題が起きたときに誰かを裁いたりするなどして実際的に社会秩序を運用しなければならないからである……と続きます。

詳しくは読んでいただければと思うのですが、特にここで借りてきたいアイデアは、責任とは存在するのではなく、便宜上、存在したことにするという部分です。

サッカーに話を戻します。ある敗北について、その原因を探すとき、それは監督なのか、監督の要求に応えられなかった選手なのか、あるいは適切な食事を用意できなかった選手の妻なのか、料理が得意な娘を育てられなかった選手の妻の母なのか、本当のところの原因はわかりません。ここにないかもしれませんし、ここにあることすべてかもしれません。

しかし、責任を選手の妻や選手の妻の母に帰属させることはまあないでしょう。なぜかというと、単にそんなことをしても意味がないからです。

責任とは、事実がどうだったかはあまり関係がないのです。起きてしまったこと、ここでは敗北を乗り越えていくために、また敗北を繰り返さないために、誰に(何に)責任を帰属させるのが効果的かということでしかないのです。

責任を自分が引き受けるときもあります。しかし、それは本当に責任が自分にあったのかということとは別問題です。誰かに責任を負わせるときも同じことです。誰かが悪かったということにする。しかしそれはその人が悪者だということを意味しない。そうすることが、組織が前に進む上で必要だからそうするのです。その目的なしに、単に責任の所在を明らかにしようとするのは、はっきりと申し上げますがまったくもって無意味な行為です。

敗北する。これからもめちゃくちゃ敗北する。そのたび、責任を負ったり負わせたりする。しかしそれは事実を白日のもとに晒したり、事実として悪者がいたとすることではない。傷ついたり傷つけたりするのではない。それは、組織や個人の未来への前進のためにのみ行われる、一つの手段であるということを理解しておく。理解してスポーツをする。

これが、この憂鬱なスポーツと関わり続ける上で最も重要な態度だと思っています。

さて、明日も試合ですね。勝つかもしれません。負けるかもしれません。勝てば嬉しい。負けるととんでもなく悲しい、負けがこんでいると、とんでもなく憂鬱になるでしょう。

でも、僕たちはそうしたゲームに嬉々として参加している変人であり、それを厳しくも明るく語り合える仲間がいること、仲間であることをあらためて知っておきたいのです。


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【告知欄】
スポーツが憂鬱な夜に というPodcastやってます。毎週水・金22時に配信中

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。