バカみたいなこと、笑って話そうよ。
朝起きると、長男が教えてくれた。
「今日ね、ふとんとまくらが逃げてたよ」
いつも夫と二人で、寝ている長男。
朝起きると、ベッドの上から、布団も枕も落ちてしまっていたようだ。
暑かったのか、寝相のせいか。
次男とともに別室で寝ているわたしには、そのようすを見ることはできない。
わたしは、ふふふと笑って、長男に聞いた。
「そうなん?どうやって逃げたんやろね」
すると、長男は考える。
そして、
「目があるねん」と言い出した。
「まくらには、横に目があるねん。
それで、カタツムリみたいに逃げるねん」
ふむ。
まくらのカタツムリ。
歩みの遅そうな、まくらである。
長男は、続ける。
「布団には、目はないねん。
でもな、羽が生えんねん。
それで、飛んで逃げるんやけど、壁にぶつかったらグシャってなる」
はばたく羽毛布団が、せまい寝室でバッサバッサと飛んで、即座に壁にぶち当たるのを想像する。
ちょっと笑える。
「壁に当たると、羽は消えるねん。
そしたらそのまま、石みたいにグシャってなって、床に落ちて、ぐしゃぐしゃの丸になるねん」
力なく、床にぐしゃぐしゃで丸まる布団。
そこへようやく、布団から逃げてきたまくらカタツムリが合流する。
そして、朝を迎える。
「なるほどな。やから朝には、ベッドのすぐ下のところに、ふとんとまくらがおるんやね」
そう!!
長男は、ピョンピョン飛び跳ねて笑った。
ふうん、おもしろいこと言うやんか。
わたしはすぐさま、それをメモして、そのまま夫にLINEで送った。
こういう時間が、なにより愛おしい。
子どもの空想の世界に触れる。
子どもの世界を垣間見る。
まくらがカタツムリになって、逃げるなんて。
そんなこと、わたしには思いつかない。
ふとんが石みたいにぐしゃっと丸まって、力なくうなだれているのを見て、壁にぶつかったなんて考えない。
なんて、かわいい世界だろう!
こういう話を聞くと、「ああ、子育てしていてよかった」とすなおに感じる。
長男は、4歳だ。
もちろん、ほんとうにまくらがカタツムリになったり、布団に羽が生えたりしているとは思っていない。
でも、そんな空想を「おもしろい」と感じる心を持っている。
その柔軟性が、ユーモアが、なにより嬉しい。
もう少し大きくなったら。
きっとおなじことをたずねても、冷めた目でこう言うのだ。
「そんなわけないじゃん」
布団が逃げるわけないじゃん。
ふつうに、落ちたんやろ。
当たり前やん。
お母さん、何言ってんの、バカちゃう。
はああーーー‥。
そんなおもしろみもない、現実めいたことを真顔で言われたら。
わたしはもう、肩を落とすしかあるまい。
いや、息子のまっとうな成長を喜ぶべきか。
なんにせよ、わたしは子どもの「子どもらしい」発想が輝く時間を、すこしでも長く味わっていたい。
子どもらしい発想、だけではない。
言葉の言い間違い。
つたない絵、さかさまの文字。
レゴで作ったカラフルな家。
砂場の手形や、丸められた紙粘土。
それは、園や学校で「おとな」がつくらせた「作品」ではなく。
まぎれもない「子ども」の足跡だ。
だれの入れ知恵も介入していない、まっさらな息子の世界。
それを間近で浴びることができるのは、「親の特権」だ。
我が子との愛おしい時間を過ごし、足跡をかんじて、ようやく「子育て」の苦労が報われるような気がする。
言いすぎかな。
教師として学校で教えていると、指導によって、子どもの魅力を損ねてしまった、とかんじる瞬間が何度もある。
図工の絵。作文指導。
表現をともなうものなら、何でもだ。
一斉指導なので仕方ないと思う反面、もったいないことしたなぁ、と反省する。
家でもおなじだ。
つい、他人と比べたり、勝手に将来を見据えたりして、子どもの言動にいちいち介入しそうになる。
子どもらしい発言を、つぶしかける。
なにそれ?
そんなこと言わんのやで。
それ間違ってるで!答えはコレ!
こんな余裕のない言葉を浴びせずに、ただ、うんうんと聞いてやりたい。
支離滅裂で、わけのわからない話でいい。
ニコニコしながら、「おもろいねえ」「それなんでなん?」と会話を楽しむ。
それだけでいいんだ。
それが、わたしのおもう、子育ての幸せ。
だから今日もわたしは、息子と空想話する。
「なんやそれ」という、くだらないことを。
なんどでもバカみたいに、笑って話そうよ。
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