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【本要約】21レッスンズ


2022/2/4

人間は、事実や数値や方程式ではなく、物語の形で物事を考える。
その物語は単純であればあるほど理解が捗る。

幻滅

20世紀には、支配階級層が「 過去をそっくり説明するとともに全世界の将来を予測する 」という触れ込みの3つの壮大な問題を考え出した。

・ファシズムの物語
・共産主義の物語
・自由主義の物語

この3つの物語の間の争いは、第二次世界大戦で最初の山場を迎え、この戦争によってファシズムが負け、やがて、共産主義の物語が破綻し、自由主義の物語が残された。

自由主義が技術的破壊によって脅かされている。
・技術的破壊とは、ITとバイオテクノロジー革命である。
技術的破壊は、経済や社会だけでなく、私たちの体や心まで再構成しうる。

私たち人間は過去に、自分の外側の世界を制御することを学んだが、自分の内側の世界はほとんど制御できなかった。

・ダムを建設し川の流れをせき止める術は知っていたが、体の老化を防ぐ方法は知らなかった。
・灌漑システムの設計法は知っていたが、脳の設計の仕方は見当もつかなかった。
・蚊が眠りを妨げたら「 どうやって殺すか 」は知っていたが、何かの考えがしつこく頭に浮かんできて夜眠れないときに「 その考えをどうやって抹殺すればいいか 」はわからなかった。

バイオテクノロジーとITの革命のおかげで、私たちは自分の内側の世界を制御することも、生命を操作したり作り出したりすることもできるようになる。意のままに脳を設計し、寿命を延ばし、考えを抹殺したりする方法を突き止めるだろう。

「 その結果がどうなるか 」は、誰にもわからない。

・人間はこれまでずっと、道具を発明するほうが、それを賢く使うよりもはるかに得意だった。
・ダムを建設して川の流れを操作するほうが、それがより広範な生態系にもたらす複雑な結果を余さず予測するよりも簡単だ。

同様に、私たちの心の流れの方向を変えるほうが、それが個人の心理や社会制度にどんな影響を及ぼすかを予知するよりも易しいだろう。

トランプは、依然として政治的な力を持っているものの、経済的価値を失いつつあることを恐れた人々に支持された。

21世紀の大衆迎合主義 ( ポピュリズム ) の反乱は、人々を搾取する経済的なエリート層ではなく、人々をもはや必要としない経済的エリート層に対して展開されるかもしれない。「 搾取と戦うより、存在意義の喪失と戦う方が、難しい 」ので、勝ち目はないだろう。

自由は、何らかの社会的セーフティネットと一体になっていない限り、たいした価値はない。

資本主義のアメリカでさえ、自由を守るためには、政府による福祉事業の必要性に気付いた。
飢えに苦しむ子どもに自由はない。

自由主義は自由を大切にするが、自由は文脈次第である。

・ある人にとっては、自由主義は自由選挙と民主化を意味する。
・別の人は、自由主義は貿易協定やグローバル化を意味する。
・自由主義を、同性婚や妊娠中絶と結び付ける人もいる。
・自由主義は、経済や政治や個人の分野で、国家的なレベルと国際的なレベルの両方で、多種多様な行動を推奨する。

自由主義は、セット型メニューからビュッフェ型メニューへ移行した。
自由主義のビュッフェから好きな料理を選ぶやり方だ。

平和な国際的関係は、自由主義のビュッフェの花形料理であり、誰も望まない唯一の料理は、移民だ。国際協力はしても移民は受け入れない。

・自由主義は、私たちが直面する最大の問題である生態系の崩壊と技術的破壊に対して、何ら明確な答えを持っていない。
・自由主義は、伝統的に経済成長に頼ることで、難しい社会的あつれきや政治的論争を解決してきた。

経済成長はグローバルな生態系を救うことはなく、逆に、生態系の危機の原因である。
経済成長は、技術的破壊を解消するどころか、破壊的技術をドンドン発明することで成り立っている。

自由主義の物語と、自由市場資本主義の論理は、人々に壮大な期待を抱かせる。

技術的破壊と生態系の崩壊の組合せを考えると、現状維持で精一杯である。

雇用

私たちは、この世界のためにアップデートした物語を創り出さなければならない。産業革命の大変動が20世紀の新しいイデオロギーの誕生につながったように、バイオテクノロジーとITの革命も斬新なバージョンを必要とする。

AI革命によって、人間の情動や欲望や選択を支える生化学的なメカニズムの理解が深まった。

私たちの選択は、すべて、謎めいた自由意志ではなく、一瞬のうちに確立を計算する、何十億ものニューロンによってなされる。人間の直感もパターン認識に過ぎない。

人間の脳の生化学的アルゴリズムは、都会のビルのジャングルではなく、アフリカのサバンナに適応した経験則や手っ取り早い方法は、時代遅れの回路に頼っている。

人間の能力である直観が、確立計算とパターン認識であるならば、コンピュータにかなうはずがない。

人間の衝動や欲望が、生化学的なアルゴリズムに過ぎないならば、コンピュータがそのアルゴリズムを解読する。

雇用の喪失の恐れは、ITの発展からのみ生じるのではなく、ITとバイオテクノロジーの融合から生じる

AIは人間をハッキングして、これまでの人間ならではの技能だったモノで、人間を凌ぐ態勢にある。それ以外にもAIには独自の機能がある、接続生態系と更新可能性だ。人間は一人一人独立した存在なので、互いに接続したり、全員を確実に最新状態に更新したりするのが難しい。それに対してコンピュータは、それぞれが独立した存在ではないので、簡単に統合して単一の柔軟なネットワークにすることができる。個人の人間が、単一のロボットに、置き換わるのではなく、個人の人間が、統合ネットワークに置き換わる。

AIは、人間の体の表面や内部から流れてくるバイオメタリックデータを分析することで、「 人間の好き嫌い 」といった感情をも認識できるようになるだろう。「 人間の好き嫌い 」という意識を「 AIは理解できる 」ということだ。

自由

自由主義の物語
・人間の自由を最も価値あるモノとして大切にする。
・あらゆる決定権は、個人の自由意志から生じる。
・自由意志は各自の感情や欲望や選択の中に現れる。

人々は、ただ王に従うのではなく、自ら政権を選ぶべきだと思うか?
生まれでカーストが決まるのではなく、自ら職業を選ぶべきか?
誰であろうと親が選んだ相手と結婚するのではなく、自ら配偶者を選ぶべきか?

もしこの三つの質問にすべて「イエス」と答えたのなら、自由主義者の一員だ。

個人の感情と自由選択に対する自由主義の信頼は、自然なモノでもあまり古いモノでもない。

①決定権は人間の心ではなく神の法に由来してきた。
②私たちは「 人間の自由よりも、神の言葉を神聖視するべきだ 」と、何千年にも渡って信じてきた。
③決定権が神から人間に移ったのは、過去数世紀のことだ。
④決定権は、人間からアルゴリズムへと移行するかもしれない。

神の決定権が、宗教的な神話によって正当化され、人間の決定権は自由主義の物語によって正当化されていた。テクノロジー革命は、ビッグデータがアルゴリズムの決定権を確立し、個人の自由という考えを破壊するかもしれない。

感情

私たちの脳と体の機能に関する科学的見識からは、私たちの感情は、人間ならではの霊的特性ではなく、どんな自由意志も反映していない。

① 感情は、哺乳類と鳥類が生存・繁殖の確率を素早く計算するのに使う、生化学的メカニズムである。
② 感情は、直感や霊感や自由には基づいておらず、計算に基づいている。
③ 生体に不適格な感情の遺伝子は淘汰されてきた。
④ 生化学的アルゴリズムは、何百万年にも及ぶ進化を通して排他され進歩してきた。

「『 私たちの感情は自由意志を反映している 』という自由主義の考えが間違っている」にも関わらず、感情に頼るのは、今日までは実用的であった。

感情には不思議なところも自由なところも全くないとはいえ、何を学ぶべきか、何を仕事にすべきか、誰と結婚するべきかなどを決めるために、感情に頼るのは、この世で最高の方法だったからだ。私の感情を私以上によく理解することを望みうる外部システムはひとつもなかった。

コンピュータアルゴリズムが人間の感情よりも優位となり、自由意志が神話であることが明確になり、自由主義は、失われるかもしれない。
・生物学者が人間の脳と感情の謎を解き明かしつつある。
・コンピュータ科学者がデータ処理能力を与えてくれつつある。

①バイオテクノロジー革命がIT革命と融合する。
② 自分の感情を、自分より、はるかにうまくモニターして理解できるビッグデータアルゴリズムが誕生する。
③ 決定権は、人間からアルゴリズムへと移る。
④ 自由意志という幻想は崩れ去る。

アルゴリズムの問題点を並べ「 アルゴリズムを信頼しない 」と結論つける人がいる一方で、人間の意思決定についての科学が進歩するにつれ「 アルゴリズムに頼りたい 」という人も出てくる。人間の意思決定をハッキングすれば、ビッグデータのアルゴリズムの信頼性が高まるだけでなく、同時に、人間の感情の信頼性が落ちるだろう。

アルゴリズムの権威が増すにつれ、私たちはアルゴリズム信頼したほうがいいことを経験から学び、自ら決定する能力を徐々に失っていくだろう。

私たちは、情報を探さず、ググる。答えを求めてグーグルに頼るにつれて、情報を探す能力を手放している。真実は、グーグルでの検索で上位を占める結果によって定義される。
by 湯浅

意識

■現時点での意識についての3つの考察

① 意識は、有機生化学と何らかの形で結びついており、非有機的システムに意識を持たせるのは不可能である。

② 意識は、有機生化学とは関係ないが、知能とは特定の形で結びついている。
そのためコンピューターは意識を発達させられるし、一定以上の知能を持つためには、意識を発達させざるをえない。

③ 意識には、有機生化学とも高度な知能とも本質的な結びつきはない。
したがって、コンピューターは意識を発達させるかもしれないが、必ずしもそうするとは限らない。
全く意識を持たないまま、超知能を持ちうる。

意識について未知だからこそ、コンピュータに意識を持たせられることは、早々には、起きない。

AIは高性能ではあるが、当面は、人間の意識への依存は続くだろう。

ビッグデータアルゴリズムは、自由主義を消し去りかねないばかりか、かつてないほどの不平等な社会を生み出しかねない。あらゆる富と権力が、ほんの一握りのエリートの手に集中する一方で、ほとんどの人が搾取ではなく、それよりも悪い、存在意義の喪失に苦しむかもしれない。

平等

バイオテクノロジーの進歩によって、経済的な不平等が、生物学的不平等に反映されるかもしれない。

富裕層が買えるのは、ステータスシンボルから、生命そのものへと移行するかもしれない。寿命を延ばしたり、身体的能力や認知的能力をアップグレードしたりするための治療や処置には、多くのお金がかかるようであれば、人類は生物学的カーストに分かれかねない。

歴史的に貴族や金持ちは「 自分たちは、他の階級 ( 農民 ) よりも優れた技能を持っている 」と考えてきた。だから、彼らは主導権を持っていた。彼らの技能が優れていたわけではなく、不当な法律的差別や経済的差別があったからに過ぎない。

ところが、21世紀の終わり頃には、技能の面で、アップグレードした富裕層が現れるかもしれない。いったん、その溝が生まれてしまえば、溝を埋めることは不可能になる。

生物工学とAIの「 普及 」「 組合せ 」という、2つの過程の相乗効果は、一握りの超人階級と、その他大勢の一般下層階級へと人類を2分しかねない。

①古代には、土地が資産であり、政治は土地の支配で、社会は貴族と庶民に分かれた。
②近代には、工場と機械が資産であり、政治は生産手段の支配で、社会は資本家と労働者に分かれた。
③21世紀には、データが資産であり、政治はデータの支配で、社会は、アップグレードした超人と一般人になるかもしれない。

データの支配は、権力を国家から、GAFAMのようなデータ企業へ移行するかもしれない。データ企業による支配が進み、何らかの自分の決定だけでなく、医療や身体的生存のためにさえ、ネットワークに頼るようになれば、人間と機械は完全に融合し、ネットワークとの接続を絶たれた人間は生き延びれなくなるかもしれない。

コミュニティ

私たちは「 『経験をシェアする 』という名目で、自分に起こっていることを『 他人にどう見えるか 』という観点から理解すること 」を促されている。何か胸が躍るようなことが起これば、私たちは、本能的にスマホを取り出し、写真や動画を撮り、SNSにアップして「 いいね!」という反応を待つ。その間「 自分自身がどう感じているのか 」には、ほとんど注意を払わない。それどころか「 自分がどう感じるか 」は「 オンラインの反応によって決まる 」ようになってきている。

私たちの感覚が「 みんな 」という他人に支配され始めている。

宗教

宗教の役割

宗教の聖典は中世には意味があったかもしれないが、科学が発展したコンピュータの時代にどんな意味があるのだろうか?

とはいえ、非宗教的な人は少数派である。何十億もの人々が、進化論より聖典を信仰している。

伝統的な宗教は、技術や政策の問題には、概ね、無関係だ。それに対して、アイデンティティの問題においては、関係が深い。

・近代以前には、宗教は、農業のような俗世の分野の多様な技術的な問題を解決する責任を担っていた。
・近代では、その宗教の役割の大半は科学へと移行した。

・聖職者は、解釈の才能があり、信者にわかりやすく伝える能力がある。
 聖職者は、伝統を紡いでいく。
・科学者が失敗を受け入れ別の方針を試すことが、科学の特徴である。
 科学者は学び成長し、技術を発展させていく。

私たちの生活の基盤をよくしていくのは、宗教ではなく、科学技術である。

① 人間の力は、集団の協力を拠り所としている。
② 集団の協力は、集団のアイデンティティを創り出すことに依存している。
③ どんな集団のアイデンティティの規範も、虚構の物語である。
④ その規範は、科学的事実ではなく、経済的な必要性でさえない。

日本の宗教

文明開花を達成するために、日本は「 固有の宗教である神道 」を日本のアイデンティティの土台とした。

実際には、日本という国は、神道を徹底的に作り直した。

①「 伝統的な神道 」は、様々な神や霊や魔物を信じるアニミズムの信仰で、地方ごとに独自の風習を持っていた。
②19世紀後期から20世紀初期にかけて、日本は「 神道の公式版 」を創り出し、地方の伝統を数多く廃止させた。
③日本のエリート層がヨーロッパの帝国主義者から学んだ、国民や民族という非常に近代的な考え方と融合させ「 国家神道 」を生み出した。
④国家への忠誠を強固にするのに役立ちうるものなら、仏教や儒教、封建制度の武士の気風も、すべて「 国家神道 」に加えた。
⑤「 国家神道 」は至上の原理として天皇崇拝を神聖化した。
 天皇は、太陽の女神である天照大神の直系の子孫で「 現人神である 」とした。

これが魔法のように効果を発揮した。日本人は息を呑むような速さで近代化すると同時に、国家に対する熱狂的な忠誠心を育んだ。「 国家神道 」の成功の象徴として最も有名なのは、日本が他の大国に先駆けて、精密誘導ミサイルを開発した事実だ。「 カミカゼ 」である。

・神は存在するのか?
・宇宙とは何か?
・物理の基本法則を定めたのは何か?
・意識とは何か?

私たちは、この疑問の答えを知らない。
自分の無知に「 神 」という名前を付ける。

この不思議な「 神 」の最も根本的な特徴は、私たちが何ひとつ具体的なことは言えない点だ。

神は、私たちに思いやりのある行動を取る気を起こさせうるものの、宗教的信仰心がなければ道徳的行動が取れないわけではない。私たちは「 道徳的に行動することを強いるような超自然的存在を必要とする 」という考え方は「 道徳には、どこか不自然なところがある 」という前提に立っている。

だが、それはなぜか?

ある種の道徳は自然だ。

チンパンジーからラットまで、社会的な哺乳動物は、盗みを働いたり同類を殺したりするような行為を制限する倫理規定を持っている。人間の場合には、全部の社会が同じ神を信じているわけでもなければ、神の存在そのものを信じているわけでもないのに、道徳はあらゆる社会に存在する。

道徳とは「 神の命令に従うこと 」ではなく「 苦しみを減らすこと 」だ。

道徳的に行動するためには、宗教の信仰ではなく、苦しみに対する理解である。ある行動が自分あるいは他者に無用の苦しみを引き起こすことが理解できれば、その行動を自然と慎むようになる。

① 人間は社会的な動物であるから、人間の幸福は他者との関係に依存する。
② 愛や友情やコミュニティがなければ、幸せになれない。
③ 幸せになるために、家族や友人やコミュニティの仲間を気遣う必要がある。

無知

過去数世紀の間に、自由主義の思想は、合理的な個人に信頼を置くようになった。

・自由主義は、独立した合理的な行動主体として人間を描き出して、現代社会の基盤とした。
 自由主義の教育は「 自分で考える 」ように生徒に教える。
・民主主義は「 有権者が一番よく知っている 」という考え方の上に成り立つ。
・資本主義は「 顧客は常に経済論理的である 」と信じている。

しかし、合理的な個人は幻想である。人間の決定のほとんどは、合理的な分析ではなく、情動的な反応と経験則によるショートカットに基づいている。合理性だけではなく、個人性も神話である。

私たちは滅多に単独では考えず、集団で考える。
人間は「 集団思考 」をしている。

ホモサピエンスが、万物の霊長になれたのは、個人の合理性ではなく「 大きな集団で一緒に考える 」という、比類なき能力のおかげだった。

私たちは「 個人として知っていることは、ごく僅かである 」にも関わらず、多くを知っているつもりでいる。

私たちは、他者の頭の中にある知識を自分のモノのように扱う。
人間は「 知識の錯覚 」をしている。

私たちは集団思考に頼っているからこそ、万物の霊長足れるし、知識の錯覚のおかげで「 すべてを自ら理解しよう 」と達成不可能な努力にかまけた人生を送らずに済む。「 他者の知識を信頼する 」という方法は、ホモサピエンスにとっては極めて有効だった。

欠点はないのか?

私たちが「 自分の無知を正しく認識すること 」は、滅多にない。

なぜなら、私たちは、同じ意見の友人や、自分の意見を裏付けるニュースからなる殻に閉じこもっており、そこでは、自分の信念が絶えず増幅され、正当性を問われることはない。

科学者自身も、科学的な集団思考の影響を免れない。
個人の合理性という自由主義の信念自体も、自由主義の集団思考の産物である。

どんなテーマであれ、深く掘り下げたければ、時間を使う余裕が必要となり、時間を浪費する覚悟がなければ、真実は決して見つからない。周辺をあちこちうろつき回って、初めて知識の中心に行き着くことができる。知識の中心は、既存の中心の上に築かれている。

教育

人類は前代未聞の革命に直面しており、私たちの昔ながらの物語は皆崩れかけ、その代わりとなる新しい物語は、今のところひとつも現れていない。

様々な情報に簡単にアクセスできるようになった現代に必要とされる能力
・情報の意味を理解したり、自分にとって重要なモノを見極める能力
・大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力
【 学校で教えるべき4つのC 】
・critical thinking:批判的思考
・communication:コミュニケーション
・collaboration:協働
・creativity:創造性

学校は専門的な技能に重点を置かず、汎用性のある生活技能を重視するべきである。中でも、最も重要なのは、変化に対処し、新しいことを学び、馴染みのない状況下でも心の安定を保つ能力になる。

変化のペースが速まるにつれ、経済ばかりでなく「 人間であること 」の意味そのものが変化しそうになっている。

変化は、ほぼ例外なくストレスに満ちており、ある年齢を過ぎると、大抵の人は、どうしても変化を好まなくなる。

・15歳の時には「 人生全体が変化だ 」と言える、全世界を制覇することさえ可能に思える。
・50歳に達する頃には、変化を望まず、ほとんどの人は世界制覇を断念している。
安定性を好み、自分のアイデンティティを保つことを望む。

大人の脳は、思春期ほどの適応性はなく、ニューローンを接続し直したりシナプスを配線し直したりするのは、重労働になる。

21世紀においては、安定性は幻想となる。

経済的にばかりではなく、社会的にも存在価値を持ち続けるには、絶えず学習して自己改造する能力が必要になる。

未知との遭遇が常識となる時代には、自分の過去の経験ばかりか全人類の過去の経験も、マニュアルとして以前ほど頼りにできない。

・超知能を持つ機械
・人工的にアップデートされた肉体
・情動を操作できるアルゴリズム

かつて誰も出合った試しのない事物や事態に、個人も人類全体も対処せざるを得ない社会になっていく。

そのような世界で生き延びるには、自分が最もよく知っているモノの一部を捨て去ることを繰り返さざるをえず、未知のモノにも平然と対応できなくてはならない。

ほとんどの大人は「 良かれと思って行動している 」が、どうしても「 世の中が理解できず 」にいる。過去には、大人の教えに従っていれば、まず、間違いがなかった。大人たちは世の中をとてもよく知っていたし、世の中の変化はゆっくりしものだったからだ。だが、21世紀にはそうはいかないだろう。変化のペースが加速しているせいで、大人の言うことが時代を超越した叡智なのか、それとも古臭い偏見なのか、決して確信が持てない。

テクノロジー自体は悪くはない。「 自分の人生に何を望むか 」を知っていれば、テクノロジーは達成の手助けをしてくれる。だが、「 人生で何をしたいのか 」をわかっていなければ、代わりに、テクノロジーが、私の目的を決めて、私の人生を支配するだろう。

自分の頭の中で聞こえる声は、信頼できるものではない。その声は必ず、生化学的なバグだけでなく、国家のプロパガンダや、イデオロギーによる洗脳や、商業広告を反映している。

手強い課題を成し遂げるには、自分のOSをもっとよく知るために必死に努力する必要がある。

「 自分は何者か 」そして「 人生に何を望むか 」を知るために。

汝自身を知れ

私たちはコンピュータがハッキングされる時代に生きているのではなく、私たちは、人類がハッキングされる時代に生きている。

アルゴリズムがすべての決定権を持つ幻想の中で生きるのか?
本当の自分自身を知って、自分の支配権を保ち続けるのか?

意味
・私は何者か?
・人生で何をすべきか?
・人生の意味とは何か?

人間は太古からこうした問いを投げかけてきた。どの世代でも新しい答えを必要とする。なぜなら、「何を知っていて、何を知らないか」は、世代によって変わり続けるからだ。科学や神や政治や宗教について、私たちが知っていることと知らないことを考えると、今日、私たちが出すことのできる最善の答えは何か?

① 人生の意味について問うとき、人は物語を期待する。
② ホモサピエンスは、物を語る動物であり、数やグラフでなく物語で考える。
③ 私たちは、人生の意味を探し求めるときに、「 現実とは一体どういうものか 」「 この世界で自分がどんな役割を果たすか 」を説明してくれる物語を求める。

何千年も語られてきた人気抜群の物語がある。

私たちは、輪廻転生の中にいる。生まれ変わり続ける永遠のサイクルの中にいる私たちは、このサイクルの中で果たすべき役割がある。

「 人生の意味を理解する 」とは、自分ならではの役割を理解することである。
素晴らしい人生とは、その役割を果たすことである。

あるとき、自分の役割を理解する、その結果、多くの試練や苦難に見舞われるかもしれないが、疑問や絶望を逃れることができる。

宗教やイデオロギー、自由主義・資本主義・共産主義、自分が「 どんな物語を信じてるか 」で、自分の役割は定められる。自分の役割を知るためには、自分が信じている物語を明確にすることだ。できるだけ詳細にすることだ。しかし「 物語は、どれも不完全である 」ことに気をつけなければならない。また、「 物語は、合理的で論理的で完全無欠である必要もない 」。

【 物語の2つの本質 】
・自分に何らかの役割を与えること
・自分の人生の終わりまで物語を信じられること
① 自分の信じている物語を疑いながら、その役割を全うすることはできない。
② 物語は、自分がずっと信じ続けられるモノでなければならない。
③ 物語を自分が信じ続けられるのであれば、不完全でも何ら問題ない、不完全どころか、虚構でもいい。
④ 物語は虚構であっても、私に、人生の意味を感じさせることができる。

私たちの科学的理解の及ぶ限りは、様々な文化や宗教が歴史を通して生み出してきた幾多の物語は、ひとつとして真実ではない。どれも、ただの創作に過ぎない。

私たちは、虚構の物語を創作して、それを信じる能力のおかげで世界を征服した。
従って、私たちは、虚構と現実を見分けることが苦手になった。

人はなぜ虚構の物語を信じるのか?

■ひとつ

① 個人のアイデンティティが、物語の上に築かれているからだ。
② 人は物語を教えられて成長する。
③ 物語に疑念を抱くような知性を発達する以前に、親や教師、メディアから、物語を刷り込まれていく。
④ 知性を獲得する頃には、物語の中の住人なので、物語を疑うことすらしない。
日本的な言い方では常識である。
・常識は「 疑うことがない 」から、常識なのだ。
・「 疑うことがないほどまで、思考の前提になっている 」のが、常識なのだ。

■もうひとつ

① 個人のアイデンティティだけでなく、自分たちが所属する集団の制度や仕組みも、物語の上に築かれている。
② 「 物語を疑おう 」とすれば、社会から迫害されたり、追放されたりする。
③ 物語は、いわば、社会構造であるから、国の法律・社会の規範・経済の制度、その全てを包括している。
・中世において「 地動説を唱えたら迫害される 」ということ
・キリスト教の上に社会が成り立っているということ
・キリスト教=社会構造であるということ

人はある特定の物語を信じていると、その物語の些細な点に関心を抱く一方、その範囲外のモノは目に入らなくなる。盲信は、盲目にする。

200万年の人類史を振り返ると、物語が生まれたのは、数千年前の話しだ、自分の人生の意味なんて、ごく最近、数百年の話しだ。人類は、死後も自分の個人的な何かが確実に存在するように「 何かを後に残す 」だけで十分その役割を果たしてきた。自分の遺伝子である。それは、どんな物語よりも圧倒的事実であることを歴史が証明している。

生物学的実体を残せないとしても、この世界が少しだけ良くなればいいのかもしれない。自分が誰かを助け、その誰かが他の人を助け、その連鎖によって、少しだけ世界が良くなる。

ある賢者は、人生の意味について聞かれると「 自分がこの世にあるのは、他人を助けるためであることを学んだ 」と答えた。そして「 未だにわからないのは、なぜ他人がこの世にいるのかだ 」と続けた。

つまり、物語は幻想であるし、人生の意味なんて、どうでもいいことだ。
「 何かに夢中になって時間を忘れるほど無我夢中になって何かに取り組む 」その一瞬一瞬に意味がある。

自由意志

私たちは「 意志や欲望を持っており、自由にそれらを満たすことができる 」という意味において、自由意志を持つ。
私たちの意志や欲望は、物語である文化や社会が根源となって生み出されたモノなので、本質的な意味での自由意志は存在しない。

・私たちは、1人で生まれ育ってきたわけじゃない。
・私たちは、外の世界の影響を受けて成長してきた。
・私たちは、プラモデルのような造られた存在である。

そして、私たちは、どんなに手を尽くそうが、自分1人で、外の世界をコントロールすることはできない。

それどころか、私たちは、自分の身体すらコントロールできない。寝ている間はおろか、起きている間も、心臓を動かすことはできない。自分の意識下でコントロールしている脳ですら、非合理で勝手な振る舞いをする。

私たちは、自由意志を持っているように自覚しているに過ぎない。

それに気付くと、自分の意志や欲望、それに伴う感情から、解放される。
私たちは、感情に支配されてしまうのは、気のせいである。
「 自由意志は幻覚で、感情は幻想である 」と解釈する。

自己とは、私たちの心の複雑なメカニズムが絶えず作り出し、アップデートし、書き直す、虚構の物語である。

この創作の過程の一部が、心からSNSへと外注されたことで、可視化された。時間をかけて、オンラインで加工を行なって完璧な自己を構築し、自らの創造物に執着し「 創造物こそが真の自分だ 」と誤解するようになった。

「 私たちの幻想の自己は視覚的にある 」のに対して、本当の経験は、身体的である。

① 本当に自分を理解するためには、体と心の流れに意識を集中することだ。
② 自分の思考や情動が、絶え間なく揺れ動いていることを自覚するはずだ。
③ その一瞬一瞬の積み重ねが、物語となって、人生を紡いでいくのだ。
【 ブッダによる宇宙の基本的な法則 】
・万物は絶えず変化している
・永遠の本質を持つモノは何一つない
・完全に満足できるモノはない

苦しみが現れるのは、私たちが正しく認識し損なっているからだ。

「 人生には何の意味もなく、人はどんな意味も生み出す必要はない 」と仏陀はいう。

私たちは、意味などないことに気付き、執着や苦しみから解放されるだけでいい。

私たちが「 絶えず何かをしていること 」こそが問題である。
必ずしも身体的な意味ではなく、精神的な意味である、私たちは常に頭の中で考えを巡らせている。
「 本当に何もしない 」というのは、身体的にも、肉体的にも、一切、何もしない。

瞑想

ヴィパッサナー瞑想は「 心の流れは身体の感覚と密接に結びついている 」という前提に基づいている。

① 私と世界との間には常に身体の感覚がある。
② 私の心は外の世界の出来事には決して反応しない。
③ いつも、自分の身体の感覚に反応している。

自分の苦しみの源泉は、自分自身の心のパターンにある。

何かを望み、それが実現しなかったとき、自分の心は苦しみを生み出すことで反応する。
苦しみは、外の世界の客観的な状況ではなく、自分自身の心によって生み出された精神的な反応だ。

科学者を含めた大勢の人々が、心を脳と混同している。
・脳は、ニューロンとシナプスと生化学物質の物質的なネットワークである。
・心は、痛みや快感や怒りや愛といった主観的な経験の流れだ。

脳と心は別物である。

・脳の研究は、顕微鏡や脳スキャナーや高性能のコンピュータによって飛躍的に進歩している。
・心は物質ではないので、顕微鏡や脳スキャナーによって見ることができない。

脳の生化学的な活動や電気的な活動は検知できるが、コレらの活動と結びついている主観的な経験にはアクセスできない。

① 心に直接アクセスできるのは、自分自身でしかない。
② 私以外にはアクセスできない心に、客観性など、存在しない。
③ 心は主観的な存在であるから、科学的に一般化できない。
④ 実験で共通性を見つけ、再現することができない。

・瞑想は、宗教的意味合いを感じるかもしれないが、原理上は、自分自身の心を直接観察するための方法である。
・瞑想は、議論ではなく実践である。
・瞑想は、身体の感覚と、感覚に対する精神的な反応を観察し、それによって、心の基本的なパターンを明らかにする。

まとめ

人間の力は、集団の協力を拠り所としており、集団の協力は、集団のアイデンティティを作り出すことに依存しており、どんな集団のアイデンティティの基盤も虚構の物語であって、科学的事実ではなく、経済的事実な必要性でさえない。

個人のアイデンティティや、社会制度全体がいったん物語の上に築かれると、その物語を疑う行為は想像を絶するモノになる。それは、その物語を裏付ける証拠があるからではなく、物語が崩れたら、個人と社会の激動が引き起こされるからだ。

無知を認め、難しい問題提起をする人々から成る社会の方が、誰もが単一の答えを全く疑わずに受け入れる社会よりも、平和である。

人間が真実を歪めて生み出す物語は「 私たち自身の心が生み出した虚構である 」とはいえ、絶望する理由はない。現実は依然としてそこにある。

虚構の物語をすべて捨て去ったときには、以前とは比べ物にならないほど、ハッキリと現実を観察することができる。自分とこの世界についての真実を本当に知ったなら、人は何があっても惨めになることはない。


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