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「好き」のチカラ @リストラーズ

ごく小さいころ 筆者は たいへん内気な子どもだった。

自分が覚えている範囲でも ちょっと騒がしい群れから離れるように 少し
距離を置いて ひとり遊びに没頭していた。

たとえば 粘土あそび。
全員に 同じ分量の粘土のかたまりが配られるのだが 威勢のいい仲間たちが いつの間にか掠め取っていく。
だが特に 文句は言わない。ケンカもしない。

手のひらの真ん中にチョコンと乗る程度に減ってしまった粘土で 作れるものを創る。
 
先生たちが気づいていたのか、それとも これも集団生活の経験だという教育的放任だったのかは知らない。
 
やがて 作品を並べて 互いに鑑賞する時間になる。
トゲトゲのある怪獣や お人形や オルゴールのような箱、好きな車や 飛行機など いびつながらも それらしい友達の作品が並ぶ。
 
なかで 自分のものはとても小さい。
一見 意味のあるものを作ってあるのかも分からないくらい 小さい。
 
作品の大きさが 大きく影響することもある。
が 好きなものを創っていいよというのが 指示だったのだから 外れている
わけではない。

 
筆者は 貝殻を創っていた。


ひとから見れば ただ 小さな粘土を丸めただけに見えただろうが 祖母と一緒に海で拾った貝殻を創ったつもりだった。

その時の会話は まったく覚えていないが なにか印象に残る思いがあったのだろう。こまかいことは すっかり忘れてしまった。
ただ あの粘土の貝殻は 今も心に残っている。

 
何かを創るとき そこにどんな思いをこめるのかは とても大事だ。
歌をうたうことも きっと同じだろうと思う。
 
 
リストラーズメンバーの「好き」を乗せて走る車


 
好きなものを創る。

仕事で求められるときは それが全てにならないこともある。
しかし 元の気持ちは忘れたくないと思う。
なぜ この仕事を選んだのか、何のために自分の時間を提供するのか。
家族を守るためなら それもいい。
愛するものを守るためなのだから 納得できる一面がある。
 
筆者自身は もし 自分ひとりが食べるためだけなら いっそ仕事などしなくていいとまで思うひとだ。

それがいけないのかもしれないが
不思議なことに どこかで目的が すり替わって 「好き」や「愛」がないのにムリに続けてしまうと 自動的に止まることがある。

誰が制御しているわけでもないはずなのに 病気になったり 事故に遭ったり大きなケガをする。

そして そこで立ち止まる。
考えざるを得なくなる。
 
いったい自分は何をしていたんだろう。
本当に やりたくてやっていたのだろうか。
ただ 金銭に飛びついたのではないか。

こんなケガを負ってまでも 背負って走るものだったのだろうか。
周りの評価を気にしすぎていた だけなのではないか。

 
そこで ようやく原点を思い起こす。

 
「好き」を創りたい。
「愛している」と思えるものを創りたい。

だから そういうものを創るひとのことも好きになる。
たぶん 野村さんが「好き」を創っているのを感じるから 好きになった。

リストラーズメンバーのひとり一人の考え方は 少しずつ違って当たり前。
でも いちばん最初にある「好き」を忘れないでいてくださったなら
それだけで 彼らには魅力がある。

そこから発信されるものには「好き」が詰まっている。
引き換えのきかない 「好き」に満ちている。


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             だけど 原点を振りかえることはできる   >

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