かわうそ

シナリオライター、LQA。 自分の思考整理のためのnote 何か引っかかるところがあり…

かわうそ

シナリオライター、LQA。 自分の思考整理のためのnote 何か引っかかるところがありましたら幸いです。 ご連絡は onamomi.kuron@gmail.com まで

マガジン

  • キャラクター論

    キャラクターそのものをどのようにいじくるのか、設定をどうするのか、なにが最適なのか……そういったことをテーマにしたnoteが集まっています。

  • 物語再論

    物語の立ち上がり方、成り立ちの仕方を、順序立てて際者から説明する。

  • ステラの事件簿(更新停止中)

  • 短編小説

  • キャラクター論:キャラの分類

    キャラクターを2軸で考える

最近の記事

誰だって、「対人関係」は面倒だとわかっていても

 この世に面倒事が好きな人は皆無であり(いるとすれば、それは相当に特殊である)、面倒事の9割は対人関係に起因する。つまりごく一部の人を除けば、人は他人と関わるのが嫌なのである。そしてそれはお互いにそうだから、普通にしていれば人は人と繋がらない。  でも、この社会はそうなっておらず、むしろ誰かと対話はおろか、協力も議論も調整もできないことは、死を意味するくらいに致命的である。私たちは誰も、それを良しとしないし、だから他人と関わって過ごしていて、そうするしかない。  重要なのは

    • 運は偶然にあらず、人の為す思いであって

       運が良いことを拒む人はいないが、しかし自分が運が良い人間だと思っている人も少ない。そして運とは人のコントロールできない何かであって、私たちはただの一度も、それを見たこともなければ、その声を聞いたこともない…そのように思ってしまう。  そうする内に、やがてこうも思う。運の良さなどなくて、つまり運などなくて、それは単なる出来事の偏りであると。たまたま、偶然、確率。運とはそういうもので構成されていて、いわばすごいものなどではないと。  これが負け惜しみだとわかっていても、私たち

      • 目的意識は「過程的目的」のために

         目的意識は持つべきものだが、何もかも目的のためになされるものではない。むしろ常に先にある「目的」のせいで、ともすれば私たちは「そのために」しか行動できないという縛りを課せられてしまう。  すると私たちは、自分自身と「そのために」の間に繋がりを感じられないまま、ただひたすら目的に走っていくことを強いられることになる。  即ち、目的意識とは大いに結構だがしかし、あくまでそれは「目的のため」に設定される。そしてそのためになされることは全て「~のための過程」となる。良く見ればこれ

        • 台詞はまさに今思いついたかのように、しかし理路整然とわかりやすく

           台詞。特殊なコンセプトでない限り、ほとんどのドラマ作品や文章作品など、そこに出てくるキャラクターは台詞を喋る。それはたとえば演劇ならば、役者がそのキャラクターになりきって憶えて、まるでそれが現実で話されているかのように感情を込めて、発せられるものだ。  そうでなくとも文章でも、台詞は「」にくくられて、その中だけは特別な文体や口調、文章ルールが適用され、区別されて表される。  それくらい台詞は、創作物にとって大事なものだ。  台詞といえば、そうやってキャラクターによって発せ

        誰だって、「対人関係」は面倒だとわかっていても

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        • キャラクター論
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          2本
        • オリジナリティへのごかい
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        記事

          人生は今がすべてではない

           人生に失敗はない。  なぜなら、どんな失敗も長い目で見て些細なものだからだ。どんな過ちも、大抵の人生はそれを許容してくれる。それくらい人生は長いものだが、しかし、それを直視できないほどに人の視野は狭い。  人間が、その死ぬまでの長い期間を想像することは難しく、明日のことすら予想できないのも珍しくはない。それがゆえに人は錯覚してしまう。今日起きたことが、人生においてとてつもなく大きいことのように。  振り返ってみれば様々な経験をしてきたと思えるはずなのに、生きている今、起きて

          人生は今がすべてではない

          物語は語られないからこそ完成する

           物語とは何かを語ることである。ストーリーとは出来事の連続である。小説、映画、漫画などたくさんの物語を伴う娯楽は、そうやって「語られること」を楽しむものだ。  しかしそれらは反対に、「語られないこと」によっても、その楽しさを成立させている娯楽でもある。  なぜなら、私たちが物語やストーリーを楽しむ時、けして「全て」を見ているわけではないからだ。私たちは、娯楽の一部しか見ることができないにもかかわらず、だからこそ、むしろその状態を「完成品」だと受け止めている。  完全なるもの

          物語は語られないからこそ完成する

          可能なら、1日に「静」と「動」の時間を作ろう

           1日のうちで全く運動をしないのは不健康だと言われている。なぜなら、至極当然に、人はかつてのように運動しなくなったからだ。現代社会では多くの物事が便利に自動化・効率化される一方で、人は自ら動くということを減らしてきてしまった。その弊害で様々な健康リスクも叫ばれるようになったところ、やはり、運動は大事なのだと改めて言われている。  だが、1つ重要なのは、本当に私たちを健康にしてくれるのは、運動ではないということである。正確には「運動だけ」ではない。  運動不足の現代人にとって

          可能なら、1日に「静」と「動」の時間を作ろう

          仕事に時間を捧げる、という類まれなる才能を

           時間をかければ仕事がたくさんできるのは当然だ。そう思う人は多い。そして、それは誰にだって、やろうと思えばできることだとも多くの人が思っているかもしれない。  時間をかければいいのだから、好きなこと、プライベート、趣味、なんでも仕事に捧げれば仕事ができるから。仕事以外の時間を仕事につぎこめば、それはそれはたくさんの仕事を処理できることだろう。  でも、普通に考えて、そんなこと大変に決まっている。時間を。それも全てに近いくらい多くの時間を仕事につぎ込むことなんて、「明日やろう

          仕事に時間を捧げる、という類まれなる才能を

          創作は自分をさらけ出すことだと本当にわかっているか

           具体例を思い描き、他者に届けるのが創作であるが、そこには1つの大きな問題がある。  具体例を思いつくことなど誰にだってできそうだ。なんなら、この日常で思いつくあらゆることは具体的であるのだから、それを他者に届ければ良いだけだ。そういうふうに思える。  でもそれは通用しない。というよりできていない。多くの人は自らの具体例をほとんど他人に届けることができないでいる。「そんな簡単なこと」ができないでいる。なぜなら具体例とは、個人的なこと…私たちそれぞれの、人生そのものだからだ。

          創作は自分をさらけ出すことだと本当にわかっているか

          性別による差別と「無別」してしまう私たち

           性差別が巻き起こるのは、その性別に対する差別意識が原因なのではなくて、単に、「当たり前」が当たり前にそうであることを疑わないことが原因である。性別とは立場であるから、そこに立たされている理由があり、そうである状況があり、そしてまた、その性別でない人とは何かが異なってるということが、時に意識されないことが問題なのだ。  突き詰めれば、この世の仕組みというのは誰かが構築したものであり、自然法則以外は「意思」が介在している。つまりそれは、その意思に都合良く作られた創作物でしかない

          性別による差別と「無別」してしまう私たち

          頑張れない目標よりは過程を大事に

           目標は人を頑張れなくさせてしまうことがあるので、全ては「課程」だと思ったほうがいい。  なぜなら目標とは遠くに設定されることが多くて、そこまでたどり着けずに力尽きてしまうことがあるからだ。それに、そうでなくとも目標は、そのためだけに全力を出すことを人に強いかねず、目標を達成してしまうと燃え尽きてしまう危険だってあるからだ。  つまり目標とは、①そこに至るまで、と②そこに至ってから、の両方で、人を頑張れなくさせてしまう原因となる。だから目標を設定すると、人は頑張れなくなる危

          頑張れない目標よりは過程を大事に

          変えることと変わること

           変わるのが難しいのではなく、変えるのが難しいのである。なぜなら変わるのは意志の力でできるが、変えるのは何かに働きかけなければできないからだ。  変わるのは自分だけでもできるし、そのためにやるべきことも複雑ではない。変化に影響を受けるのは最少で自分だけであり、変わったことだってわかりやすい。  ところが、何かを変えようとするのならば、それほど難しいことはない。まず、変えることに納得させねばならないし、変える途中の協力も不可欠で(無機物であっても)、やることも多く、複雑だ。そ

          変えることと変わること

          管理は実務の邪魔をする。「仕事」にまつわる、とある不都合

           管理とは実務の邪魔をするものである。もしくは管理と実務の目指すべき方向が違うために、これらは衝突せざるを得ないものと言える。  根本的に、管理と実務の相性の悪さを解消できなければ、より良い働き方とか、効率化とか、ワークライフバランスとか、そういう仕事にまつわるお題目はすべて、意味をなさないものになりかねない。  それくらい、管理と実務は異なる立場に立っている。  そもそも管理とは、何かを枠からはみ出さないように見ておくことを意味する。そうやって何かを監視し、記録し、分析し

          管理は実務の邪魔をする。「仕事」にまつわる、とある不都合

          他者ばかりの世界に生きる、自己中心的な生き方

           他者ばかり目に入る世の中だからこそ、私たちは他者に無関心になっている。いつも、周りを見渡せばすぐに他者の様子がわかってしまうから、私たちは自ら情報を閉ざすことが得意になった。いつもなんでも受け入れていては頭がもたないから、むしろ、この情報化社会で私たちはいかに情報から切り離されるか、というチャレンジをしていると言っていい。  もちろん、あらゆる物事が瞬時に世界中へと駆け巡る世の中で、実際に情報から切り離されるなんて不可能である。しかしそうではなくて、私たちは他者のことから切

          他者ばかりの世界に生きる、自己中心的な生き方

          気取れる評論家、冷色される社会

           誰でも評論家を気取れるので、世の中はつまらなくなっていく。評論家とは物事を正しく見ようとするものだが、同時にそれは、物事の種明かしをして白けさせるものでとある。それは盛り上がりとかエンタメとか楽しさとは相性が悪く、冷静でノリが悪くて心が動じないことである。  よりによって、そんな評論家がカジュアルになってしまった現代は、評論家らしい「悪癖」が十分に発揮される大舞台となっている。別に、評論家だって人間だから、物事を楽しんだり盛り上がったり、いつでも冷静じゃないことだって普通な

          気取れる評論家、冷色される社会

          感じなければ信じられず、そして視野は狭まっていく

           人は意味のないものに興味を持たないのではなく、意味を「感じられない」ものに目もくれないだけなのだ。だからそれは、いかに意味がわからなくとも、意図が読めなくとも、そこに、その人の思う「意味」さえ感じられれば興味が惹かれてしまうということである。しかし逆に、いかに意味があろうとも、有用でも、知っていなければならないことだったとしても、「意味がなさそう」と判断すればそれまでということである。  これは、人が信じたいものを信じ、そうでないものを信じないのとはまた別に、そもそも「意

          感じなければ信じられず、そして視野は狭まっていく