「平均が理解できない大学生」後始末――新井紀子らの「大学数学基本調査」を批判する(ツイッター 2012.02.24/「第14回文学フリマ(東京)」サークルペーパー)

はじめに

※投げ銭用に有料記事にしております。

本稿は、2012年に私が「大学数学基本調査」及びそれに関する新井紀子氏らの論評を批判したもので、前半は同年2月24日にツイッターで、後半は同年5月6日に開催された「第14回文学フリマ(東京)」のサークルペーパーに収録されているものです。なお、転載にあたっては『若者論の忘却は歴史の忘却である(SNS叢書4巻)』をベースにしております。

本稿は、後半部のみ『現代学力調査概論(平成日本若者論史3)』、前半と後半の両方を『若者論の忘却は歴史の忘却である』に収録しております。

ツイッター

初出:https://twitter.com/kazugoto/status/172991169238802432 ほか

  • 日経新聞「大学生4人に1人、「平均」の意味理解せず」2012年2月24日 https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG24024_U2A220C1000000/?dg=1

  • 読売新聞「「平均」の意味、大学生の24%が理解せず」リンク切れ

  • 朝日新聞「大学生の4人に1人、「平均」の意味誤解 数学力調査」リンク切れ

  • 毎日新聞「“大学生の数学力:24%が「平均」理解せず」リンク切れ

一通り読んだけど、以前の大学生がどうだったかという検討もないし、社会調査法や数学教育について明るい人によるピアレヴューもない。これで満足している時点で我が国の数学は絶望的だ。(日経の記事は)報告書の中でもさらに若年層の学力が低下しているかのようなデータを抜き出して報道。所詮若者報道ってのはこんなもんなのか。読売オンラインも「平均」が見出しか。マスコミはよほど統計学における平均値の意味について自信を持って説明できるようだ(笑)。(他方、読売は)さすがになんでも「ゆとり教育」のせいにするのは避けたようだが……。

(朝日新聞の記事に)《初めて実施した》ってのがミソ。要するに、以前や他群との比較がないということ。(毎日新聞の記事に登場している)宮岡洋一ね。この人は、以前との比較もないような調査についてその結果がさも「ゆとり教育」によってもたらされたものと安易に即断した人物として、悪い意味で覚えておく必要があるな。日経の記事は、最後のほうで「ゆとり教育」と関連づけるような書き方を行っているけれども、そういう書き方をするのであれば、以前の大学生はいったいどうだったの、ということについてきちんと反問できるロジックを持っている必要がある。

調査の原文読んだ。やはり、危機感だけにドライブされていて、調査の正当性とかには頭が回っていないようだった。マスコミも調査の目的が何かとか、その調査は科学的に正しいかまで突っ込んだ報道をしないと、ただ若年層に対する偏見を強化するだけで終わってしまうよ。

調査に関わった人のようだが、いったい何を指して「複合汚染」と言っているのか。それは今回の結果が「悪い」という前提に立った上でしか成り立ち得ないのでは?

「第14回文学フリマ(東京)」サークルペーパー

さて、今回のサークルペーパーでは、日本数学会が平成24年2月21日付けでその調査結果を発表した、「大学数学基本調査」及びその報告書である「「大学数学基本調査」に基づく数学教育への提言を採り上げたいと思います。そもそもこの「調査」は、報告書によれば、平成23年4月1日から7月20日にかけて行われ、次のような性質を持つものとされております。

調査実施機関:48大学
調査実施クラス(オリエンテーション等の機会を含む):90クラス
調査を受けた学生総数:5934名
(略)
出題範囲:現行の指導要領では、「数学Iまたは数学基礎」意外は必履修から外れていること、また、数学を大学入試科目として課さない大採点方法:数学者10人を含む大学教員12名で採点を実施した。各記述式問題に対して、数学者2名を含む3名以上で採点基準を策定した上で、合議制によって採点を行った。
誤答をその傾向から分析した上で、因子(偏差値群、系、小中高で得意だった科目・不得意だった科目、算数・数学に関係しての通塾経験等)との関係を統計的に分析した。

日本数学会「(概要版)日本数会「大学生数学基本調査」に関する報告書」

……というものらしいです。まあ、ここで掲げられた崇高なる(?)目的が本当に達成されているかどうかは実に怪しいですが。しっかしこの程度の「調査」を受けた48大学90クラス5934名分の答案をたった12人の大学教員だけで、しかも統計解析に必要な情報なども抽出したうえで採点することができるなんて、大学教員なんて相当な閑職なんでしょうかね。どうせ学生や院生やポスドクに外注したんでしょうが。あと、全国の大学生の人数とか分析の際の検定力とかを考えれば、もう少し調査対象者は少なくできると思います。その分サンプリングにもっと力を入れることも不可能ではなかったはずです。

私がこの調査について批判したのは以下の点です。第一に、この調査が危機感だけにドライブされていて調査の正当性などには頭が回っていないと思われること(この点はマスコミも同様ですが)。とりわけ調査の性質だけ見てみると、とにかくサンプルを集めるのが正義だという価値観が透けて見え、層別抽出とかサンプリングの量とかは度外視されているような気がします。

第二に、回帰分析や各種検定などといった高度に統計的な処理が(少なくとも報告書とマスコミ報道を見る限りにおいては)行われていないこと。まあ回帰分析とかカイ二乗検定とかはマスコミ側で理解している人は少ないでしょうが、少なくとも特定の属性を持った群の違いを見たいのであれば、このような統計的な処理は不可欠です。またこの調査においては、何と何を比較しているのかが不明瞭であるという問題点もあります。第三に、これはマスコミの問題なのですが、とりわけ日経や毎日=共同が「ゆとり教育」と絡めてこの調査の結果を紹介したように、安直な因果論を持ち出すような報道を行っていたこと。しかしこれはひとりマスコミの問題ではなく、そのような報道を生んでしまうような調査の問題でもあるのです。

さて、この調査について、調査に関わった人物と思われる新井紀子(国立情報学研究所)と尾崎幸謙(統計数理研究所)によるなんとも言い訳がましいレポートが「世界」平成24年5月号pp.133-141に掲載されております。タイトルは「「空想主義的」教育改革がもたらしたもの――大学生数学基本調査の結果から」です。

さて、前の段落で、私はこのレポートを「言い訳がましい」と述べましたが、実際問題このレポートを見ていると、調査者が何を明らかにしたいのか、あるいはどのような因果の鎖(共分散構造分析におけるパス図のようなものですね)を想定しているのかわからなくなる代物になってしまっております。

例えば調査の動機について、著者らは次のように述べております。

数学者を主体として構成される日本数学会では、1990年代後半から大学新入生の学力低下を危惧する声が聞かれるようになった。世間でいわゆる「学力低下論争」が起こる数年前のことである。(略)さらにここ数年は「入学試験や一年生の期末試験における数学の答案にまったく意味の通じないものが増え、どう対処したらよいか当惑している」との意見が頻繁に寄せられるようになった。リメディアル(筆者注:大学初年次に行う補習的教育カリキュラムのこと)教材や補習といった手段では補うことができない深刻な問題がある――それが、ここ数年の数学者の実感だったのである。

新井紀子、尾崎幸謙「「空想主義的」教育改革がもたらしたもの――大学生数学基本調査の結果から」、以下、特に断りがないならここからの引用、p.133、引用に際して漢数字を数字に改めた、以下同じ

そのようにお偉い先生方が危機感を表明されるのであればそれはそれで構わないのですが、他方で調査者には物事の根本を明らかにするという使命があるわけで、それに見合うほどの慎重な調査が求められると思うのです。しかしこのレポートは、読めば読むほどこの調査の考えに同意する数学者が何を考え、何を求め、何を明らかにしたいのかが全くわからないものに仕上がっているのです。

例えばこのレポートでは、下記のような笑いを取っているとしか思えないような記述が出てきます。

問2-1では、「偶数に奇数をたすと奇数になる」ことを論証する問題である。正答に準正答を加えた国立S群では76.6%だったが、国公立A群では半分以下の35.7%、国公立B群ではさらにその半分以下の16.3%だった。入学目標偏差値が50であり、「標準的な大学生像」と重なるとされる私立B群では、正答率は11.8%であり、約9人に1人しか正しく答えられなかった。

報告書によれば調査対象校の偏差値はベネッセ等が発表している偏差値を使っているようですが、そこまでわかっているのであれば、「国立S群」とか「私立B群」とかで茶を濁さず、偏差値(量的指標)、文系/理系や私立/国公立(ダミー変数)を独立変数、そして正答したこと(ダミー変数)を従属変数としたロジスティック回帰分析ができるはずなのですが。

また偏差値で群を輪切りにするとしても、それこそ「国公立A群」みたいな複数の指標が関わったグループ分けをするのではなく、「偏差値層」「経営形態(国公立/私立)」「文理」「偏差値層×経営形態」「偏差値層×文理」「経営形態×文理」「偏差値層×経営形態×文理」で分散分析ができるはずなのですが。偏差値による影響と経営形態による影響、そして文理による影響はそれぞれ独立した影響と、組み合わせによって生じる影響が出てくるはずで、その大小を考えてこその統計解析のはずです。最初から「国公立A群」みたいな区分分けをするのはさすがに無理があるというものです。あと、なんで偏差値50の私立大学生だけが《「標準的な大学生像」》となるのでしょうか?標準的な大学生は国公立にいてはいけないと?

そもそもこのような価値観は、みんながみんな大学に行くものと仮定した上での発言なのでしょうが、少なくとも入試での選別を受ける以上、大学生全体をとった場合の偏差値のピークはもう少し上になるはずです。ましてや標準的な「医学部の」学生となった場合には偏差値のピークはさらに上となるでしょう。高校などとは違い、大学においては学部・学習内容などによって「標準」とされる水準はいろいろと異なるものではないでしょうか。

またこのような、安易な比較で実態が伴わない記述も見られます。

問2-1の正答率を同じ偏差値群内で比較したところ、数学で受験をしない学生に比べて、マークシート方式であっても数学を受験した学生のほうが2.4倍正答しやすく、記述式で数学を受験した学生は9.6倍正答しやすかった。

p.136

《同じ偏差値群内》って…どこ?それ以前に《2.4倍正答しやすく》などといった比較は、単純な数値的な比較なのでしょうか、それともクロス集計やロジスティック回帰分析などの統計的な処理をした上での比較なのでしょうか。このように比較に関する安易さもこのレポートの特徴と言えます。さらに著者らはこのあと、数学や国語に対する得意意識が正答と負の相関を示している!みたいな結果がでて躍起になっていますけど、ここまで統計に関する無知さ・適当さをさらけ出した後では、どんな結果が出ていたとしてもその比較の正当性を疑ってしまいます。

で、ここまで統計(というよりは比較)に関する軽さを臆面もなくさらけ出した上での結論がこれ。ギャグで言っているとしか思えないので、長くなりますが多めに引用して晒し者にしてしまいますかね。

教育が既にひとつの「産業」であり、「システム」である以上、それに関わるプレーヤーは自らの効用が最大化するようにゲーム理論的に行動する。(略)問3の全体の正答率は5問中最悪の7.6%であった。この問題は高校入試ではまず出題されない。高校入試に対する情報開示請求が認められるようになった結果、誰もが納得するような部分点の出し方を説明しづらい証明問題や作図問題を高校側は避けようとする傾向がある。高校入試で出題されない問題は、指導要領で教えるように求め、すべての教科書に掲載されたとしても、現場では教えないか軽視されてしまう。これは、高校入試実績を主として求められている中学校教員および受験教育産業が、彼らの最適化を目指して行動した結果だといえよう。
教育に関わる人々だけではない。70年代までの子どもは経済という大人の社会から放っておかれた存在であった。しかし、80年代後半に入ると、新自由主義経済は子どもが消費者であることを発見し、その隅々まで触手を伸ばした。今や、子どもは教育を含めた生活の細部に至るまで「消費者」として経済に組み込まれてしまっている。現在の大学生は、生まれたときから携帯ゲーム機やコンビニに囲まれ、小中学生時代から携帯電話に慣れ親しんできた若者たちでもある。当然のことながら、そのことは、彼らの価値観や行動様式を大きく変化させた。たとえば、今回の調査を実施した教員からは、「回答時間をもてあまして携帯電話をいじりたがる学生が多くて困った」という意見が寄せられた。たった数分の時間を、答案を見直すのではなく、携帯につながっていないといられない学生の姿がそこに映る。
(略)有識者の意見は、結局のところ個人的な体験談に過ぎない。どちらも産業化してしまった教育全体について科学的に分析する方法論は持っていないのである。にもかかわらず、本来プラグマティックであるべき官僚は、空想主義的教育改革を実行に移してしまった。

pp.140~141

もうわけがわからないよ!おなかいっぱい。だいたいなんですか特に2段目。典型的な世代論、若年層バッシングの論理ではないですか。こんなにも統計学や比較に関する無知っぷりをひけらかしておいて、今更経済が悪いだとか子供が「消費者」になってしまったことが悪いだとか被害者面されても(これがおそらく新井のツイートにおける「複合汚染」という言葉に秘められた含意なのでしょうが)、この調査の結果自体が分析の体をなしていないのですから傲慢にもほどがありますよ。

この調査についてコメントをするとすれば、少なくとも問題用紙自体に問題があると軽々しく結論づけるのは急ぎ足に過ぎるでしょう。しかし分析に関しては、本当に駄目だと言うほかありません。特定の因果や相関、そして影響を突き止めたいのであれば、必要なのは持っているものを細部までデータ化して、そして最善を尽くして分析するというのが原則のはずです。今回の調査自体、部外者である私の目からしても、いくつものダミー変数とモデルが思いつきましたし、それを元にしたロジスティック回帰分析やクロス集計、パス解析が可能であったはずです。

にもかかわらずこの調査者たちがそのような緻密な分析を行わず、拙速としか言いようがない「お話」に終始していたのは、やはりこの調査が危機感のみにドライブされていたことの証左と言えるでしょう。最後の引用文のように著者らが飄々と被害者面することができるのも、結局のところこの調査が、自分たちが「問題」と考えていることの責任を他人に押しつけたいだけのものでしかないからでしょう。

このような「調査」をのさばらせておくことのほうが、我が国の数学教育にとっては悲劇であり、危機です。そして我々は学ばなければなりません。このような安易な「調査」を排することこそ、数学的、いや論理的思考力の要諦であるのだと。

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