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宗教的トラウマ症候群:脱会によるトラウマ

マーリーン・ウィネル博士のRTSに関する論文の第三部です。第一部、第二部は以下の記事にまとめてあります。

今回は文量も多く、内容も専門的なものが多くなっていますが、当事者として訳しながら、非常に濃い情報だと感じました。改めて、この翻訳シリーズをここまで応援してくださった皆さん、そして特に翻訳を快く許可してくださったウィネル博士に感謝したいと思います。

宗教的トラウマ症候群:脱会によるトラウマ

Marlene Winell, Ph.D.

宗教的トラウマ症候群(RTS)は、有害な宗教による継続的な虐待と、個人的な信仰や信仰共同体から離れることの両方によって引き起こされます。当事者が経験する症状は、PTSDと複雑性PTSD(C-PTSD)が組み合わされたものだと理解することができるでしょう。前回の記事では、特に聖書に基づく宗教を取り上げ、長期的な悪影響を引き起こしやすい支配的な宗教の特徴について説明しました。今回は、そのような宗教から脱会することによって生じるトラウマについて解説します。

PTSDの理論では、死亡や重傷を実際に目撃、体験した時、または自分や他者の身体的な完全性が損なわれるような脅威に遭遇した時、それらをトラウマ的な出来事と呼びます。信仰を失うこと、あるいは宗教から離れることは、一つの現実が終わりを迎えることであり、それまでの人生の死を意味するのです。これは非常に衝撃的な出来事であり、宗教からの脱会は「トラウマ的な出来事」として認識される必要があります。

脱会するとはどういうことか
束縛的で、マインドコントロールを行うような宗教から抜け出すことは、当然のことながら開放的な体験です。脱会者は大きな安心感と新たな可能性への期待感に胸を膨らませることもあるでしょう。非合理的な教義を信じるために自分の思考を捻じ曲げたり、「この世」で生きていくため、強い認知的不協和に対処したり、抑圧的な規範に従ったりといった、様々な問題から解放されます。宗教の中で何とかやっていこうと、罪悪感や混乱のサイクルを何度も繰り返した後、ついに支配的な宗教から逃れられた時には、大きな達成感を感じられることでしょう。

しかし、同時に脱会は大きな困難を伴います。ほとんどの人にとって、宗教的環境は、社会的支援、一貫性のある世界観、生きる意味や方向性、規律のある活動、感情的・精神的充足感など、あらゆる主要なニーズを満たしてくれる、便利な環境だったことでしょう。宗教を離れることは、人生の大きな変わり目の時期に家族や友人からのサポートを失う事をはじめとした、あらゆる喪失を意味します。結果として、脱会はDSMの第4軸に書かれている他の状況と同じかそれ以上に、非常に孤独なストレス体験となるのです。その人の性格や置かれた環境によっては、単に宗教活動をやめるだけで、比較的簡単に自分の人生を歩み出すことができることも有り得るでしょうが、多くの人にとって脱会は大きな不安、絶望、悲しみ、怒りを伴うものなのです。

一般的に、脱会者はまず理性的に宗教的信念を手放し、それから感情に折り合いをつけていく、という経過をたどります。馴染み深く、これまで自分にとって大切だった世界観を手放すためには、一定期間の情報収集や葛藤が必要で、認知を変えていく段階だけでも大変です。しかし、宗教に対する信仰心は基本的な欲求や恐怖感情と結びついており、幼少期から植え付けられたものであることも多いため、感情的な手放しは更なる困難となります。

自己肯定感の低さや、恐ろしい罰に対する恐怖は、長期化しやすい課題です。ほとんどの支配的な宗教が「この世」に存在する悪に対する恐怖や、その宗教に属さずに孤立することの危険性を説きます。「この世」では見知らぬ地に放り出された幼子のよう感じ、ちょっとした失敗がパニックを引き起こすこともあります。抑圧的で閉ざされた環境から出てきた時、ストレスに対処する方法を知らなかったり、個人として健全な成熟を遂げていないこともあるでしょう。あらゆる事に対して恐怖を覚えるように教化される事で、脱会後何年も経ってからであっても、自分が酷い間違いを犯してしまったのではないかという考えに襲われ続けます。「もし彼らが正しかったとしたら…?」という疑問には繰り返し向き合わねばなりません。

「私の頭に刷り込まれた信念によって、どれだけの苦痛を経験しなければならなかったか、本当に驚くべきほどです。地獄のような苦しみと計り知れない恐怖から解放されるためなら、一度死んで本物の地獄に行ったとしても構わないと思うほどでした。」

「うつ、不安、疲労、不眠、その他諸々の苦しみ。もう最悪です。きっとこれはクリスチャンでありながら罪を犯してきたことの罪悪感、そして愛する人が地獄に行ってしまったかもしれないという絶望感からくるものなのでしょう。」

宗教との断絶を決意することは、多くの人にとって、人生で最も混乱をもたらし、困難を伴う激動の時となるでしょう。これをよく理解するためには、原理主義的な団体が掲げる宗教的な世界観が、どのようにして現実を定義し、支配しているのか、その多岐にわたる全体性に目を向けなければなりません。過去、現在、未来を含めた世界の全てが説明され、人生の意味や従うべき倫理観も決められており、個人が存在価値を見出すためには、この定められた世界の仕組みの中に自分の居場所を見つけなければいけません。今の人生においても、また死後の世界においても、従順であることによって良い結果が起こることが約束され、不従順であることに対しては悲惨な結末が待っていると脅されます。支配的な宗教は、信者が一般の世界についての情報や、異なった見解に触れるのを制限する傾向があるため、自分たちの宗教的世界観こそが唯一の可能性だと簡単に結論付けてしまいます。自分たちの世界の外のものは間違っているか、危険で邪悪なものだとみなされます。このような閉ざされた環境から離れる時、まるで泡が弾けてしまうように、その人が真実だと信じてきたもの全てが砕け散るのです。

「私の存在を支えていた土台はことごとく崩れ去ってしまいました。自分は勇敢で、忍耐強いタイプだとは思いますが、それでもこの過酷なプロセスの中で、何度も何度も悲しみの波に飲み込まれて圧倒されています。どれだけ人生を狂わされたか信じられないほどです。」

「生きる意義、目的、価値観、全てがキリスト教への信仰に固く結びついていました。疑いの心はすべて葬り去り、信仰にとって不都合な事は考えないようにしてきました。一年前、福音主義から離れました。今も深く生々しい苦痛を味わっています。」

脱会による影響は日常生活に支障をきたすこともあります。

「あの時感じていた心の乱れは凄まじいものでした。日常生活にも影響を及ぼし、ベッドから全く出たくない日が続きました。うつと不安に同時に苦しんでいました。こんな状態ではほとんど授業にも集中できず、大学に通うのは非常に困難でした。」

「全く混乱していて、何を考えて良いのか分からず、私の人生は台無しになってしまいました。不安が続き、一ヶ月仕事に行けていません。」

「あれから三年、毎晩お酒を飲むことに依存しています。」

砕かれた仮定の理論
トラウマに関する研究の中で、RTSの理解に特に役立つものも存在します。その一つが砕かれた仮定の理論(shattered assumption framework)、または「仮定された世界の喪失」(loss of the assumptive world)(Kauffman、 2002)です。これは、愛する人の死などのトラウマ的喪失を理解するために用いられてきましたが、信仰の喪失にも応用することが可能です。ベダー(Beder、2004)は、「『仮定された世界』(assumptive world)という概念は、人を支え、安心させ、安定させ、方向づける仮定や信念の事を指します。これらは私たちの核となる信念です。人が死やトラウマに直面した時、これらの信念が打ち砕かれてしまい、混乱し、パニックに陥ることもあります。」と説明しています。

最も深刻なトラウマは人為的で、暴力や侵害を伴うものだとされています(DePrince and Freyd、2002)。(恐怖を用いて子供達に対して宗教的教化を行うこともこれに含まれると私は考えています。)この理論では、こうしたトラウマによって「世界は善である」「世界には意味がある」「自分には価値がある」という、世界に対して個人が抱いている三つの基本的仮定が打ち砕かれるのだと説明します(Janoff-Bulman、1992)。これに「他者は信頼するに値する」という四つめの仮定が加えられることもあります(Roth and Newman、1991)。「仮定された世界」が宗教団体によって作り出され、維持されているものと考えれば、このモデルを宗教にも当てはめることが可能でしょう。宗教においては、「自分には価値がある」という前提が、「罪深く、同時に特別でもある、という矛盾した自己に価値がある」と変えられます。つまり、人間は本質的に誇るべきものは何もないが、大きな目的を与えられ、宇宙的、霊的なドラマの中で何らかの役割を果たすことも可能である、というのです。

これらの研究者は、スキーマやその他の認知的要因が、どのように保守主義や基本的仮定を変えることに対する抵抗につながるのかを調査しました。他の研究では、強く抱いている信念に反する情報に直面した時、脳が否定的な反応を示す事が明らかにされました(Shermer、2011)。トラウマ的な体験は基本的な仮定や信念を打ち砕き、逆に言えば、信念が打ち砕かれる事はトラウマとなるのです。トラウマに対処し、癒しが起こるためには、古い思い込みや仮定を、新しく修正された仮定と調和させる必要があるとされます(DePrince & Freyd、2002)。トラウマには感情的側面と認知的側面の両方があると理解されています。

信仰の喪失や宗教からの脱会をこの視点から見る事は、脱会に伴うトラウマの激しさを説明するのに役立つでしょう。宗教団体は、その集団にとって真実であるとされている多くの複雑な仮定を持っています。何世代にもわたって受け継がれてきた「ミーム複合体」を否定する事は、大きな認知的混乱であると当時に、社会的拒絶のリスクを伴います。意味を持たない世界の中で無力であることでパニックが生じることもあります。
(補足:ミームとは、模倣を通して、脳から脳へと伝達・複製される文化の情報の基本単位である。 同時にコピーされ伝播していく一群のミームを「ミーム複合体」と呼ぶ。(Wikipedia「ミーム学」))

「これほどの混乱、痛み、悲しみ、喪失感、恐怖、不安、憂鬱、麻痺を経験した事はありません。全ては宗教、信仰、神のせいです。」

支配的で権威主義的な宗教の全てが、壮大で究極的な約束をすると同時に、献身を要求している事は注目に値します。誠実で、敬虔で、献身的であった人ほど、宗教によって仮定された世界が崩れ去った時に、より大きな心の傷を負う傾向があるようです。これは、仮定が砕かれると自己がばらばらに断片化してしまうというカウフマン(Kauffman、2002)の視点からも理解できるでしょう。彼は「仮定された世界の持つ秩序は、人間の魂を保護する幻想の集合である」とも語っています。

「ましな日もありますが、ほとんどの日は暗い雲に覆われているように荒れ果てています。私にとっての悲劇は、人生の全てを、その色合い、陰影、困難と挑戦も含め、愛しているという事なのです。もう今までのように決められた見方で人生を眺める事はできなくなってしまいました。」

「危機の中でパニックに陥っていて、一人で未来に立ち向かうのが恐ろしくて仕方ありません。自分の決断がキリスト教の教えに沿ったものでなければ自信を持つことができませんし、自分の内側から充足感を見出すことはできません。」

多くの人にとって信仰から離れる事は、死や離婚のようなものなのです。「神との関係」が全ての中心にある仮定だったため、それを手放す事は深い悲しみをもたらす喪失となり得るのです。いつもそばにいてくれた恋人や親、友人を失うことに近いのかもしれません。

「まるで家族を亡くしてしまったみたいです。私の神であったイエスが死んでしまって、どれだけ信仰を持とうとしても彼は生き返りませんでした。本当に恐ろしく悲惨な、魂の闇夜の体験でした。」

「脱会した時、まるで友人や配偶者を失ったかのように感じました。間違いなくトラウマ的な体験でした。今になってやっと部外者として、これがいかに狂気の沙汰で、ダメージを与えるものだったかが見えるようになりました。」

裏切りのトラウマ理論
このアプローチは、トラウマに対する主な反応として、恐怖感情に焦点を当てた従来の考え方に疑問を投げかけます。PTSDは不安障害であり、人はトラウマ的な出来事に反応して強い恐怖や無力感を感じるのだと理解されてきました。そのため、治療は感情処理の機能を修正することに焦点が当てられてきました。フレイド(Freyd、1996)は小児期の虐待、または信頼できる養育者による裏切りが記憶に及ぼす影響を研究し、侵害に対して低い意識を持つことが生存のために価値があるようだと結論づけました。つまり、侵害が起こった事を認知的に評価する事自体がトラウマになりうる事を示しているのです。

裏切りという概念は、人為的なトラウマを理解するための文脈全体を変化させる重要なものです。まず第一に、社会は、トラウマの被害者が安全性という基本的仮定の幻想を打ち砕く事に反発し、被害者を非難することがあります(Van der Kolk、McFarlane、and Van der Hart、1996)。

第二に、継続的に繰り返される虐待によって生じる複雑性PTSDの場合、関係性の問題に焦点を当てる事は大きな違いを生みます。デプリンスとフレイド(DePrince and Freyd、2002)によると、主流派の心理学では恐怖感情に焦点を当て、トラウマ体験者の反応を病理化する傾向があります。このアプローチでは、恐怖を体験したことの責任は、明言されているにせよ示唆されているにせよ、サバイバー自身に負わされます。例えば認知行動療法は個人が抱える不安症状の治療に焦点を当てています。

トラウマに対して裏切りの反応が起こるということが考慮されるとき、研究や治療に際して、関係的・社会的な文脈が重視されることになります。問題はサバイバーの心だけに存在するのではないのです。誰が裏切りを起こしたのか、どんな裏切りが起こったのか、加害者とはどんな関係性だったのか、社会はどのように反応したのか、などが問われることとなります。裏切りという枠組みを用いることで、被害者と加害者の関係により詳細な注意を払うことができる、と研究者たちは語っています。(宗教的な教化においても、長期的に影響を及ぼす暴力的な感情的・精神的虐待がなされると言えるでしょう。)歴史的背景を考慮することで、代々伝わる世代間トラウマの可能性にも目を向けられます。

不信感、過小評価、個人的な体験の軽視など、トラウマ的な体験の後にサバイバーが他者から受ける反応も、裏切りとして考えることができます。トラウマに社会的・文化的な力が働いていると認識することは、個人の感情だけの問題として扱うのではなく、裏切りが起こった時の対処に関してのコミュニティの役割について考慮することに役立つでしょう。対人関係での裏切りがトラウマに貢献している事を認めるためには、人間は互いに害を与えうるのだという現実に向き合う必要があります。(DePrince and Freyd、2002 )。

砕かれた信仰
あらゆる「仮定された世界の喪失」の中でも、宗教を失う事は特殊で、極端なケースになる可能性があります。信念体系が打ち砕かれる事は壊滅的で、認知的・感情的な問題や、裏切られたという痛切な思いを引き起こすことがあります。多くの元信者は、嘘の世界で育てられたという虐待に対して怒りを抱いています。普通の子供時代、誠実な情報、成長し活躍する機会を奪われたと感じるひとも多いでしょう。自分には価値がなく、救いが必要だと教えられながら、自分は救われるに値する人間だと確信することができなかったことへの恨みを抱えたり、地獄の恐怖、携挙、悪魔、棄教、許されない罪、邪悪な世界に対する怒りを持ったりすることもあります。自分が善良であると感じることも、安全であると感じることも許されなかったことに対して憤りを感じているのです。同じ教えが多くの子供達に教えられ続けていることに対して不満を抱くことも多いでしょう。彼らは神に仕えるために自分の人生を捧げ、すべてを諦めてきたことや、家族や友人を失ったことに対して怒っているのです。あらゆる面で裏切られたと強く感じているのです。

以下のコメントは、仮定が砕かれることや、裏切られることがトラウマの要因になっている事を裏付けるものであるでしょう。

「子供の頃は地獄が怖く、自分は救われないんだと思って毎晩泣いていました。非合理的な恐怖によって、非合理的な決断をしてきました。今、私のキャリアはどん底で、教会を離れたことによって友人や家族との繋がりも途絶えてしまいました。自分の人生を取り戻そうとしているところです。」

「43歳になった今、青春を無駄にしてしまったと感じています。失ってしまった楽しい機会、断った女性たちからのアプローチ、受けることができたはずの教育、31年の間耐えなければならなかった不安、罪悪感、恐怖について考えてしまいます。」

「かつての『信仰生活』についての怒り、悲しみ、絶望が入り混じった感情を抱いています。成人してからの約20年間を『真面目なクリスチャン』として、『神への聖書的な徹底的服従』を目指して生きてきました。しかし、決して神を完全に喜ばせる事はできませんでした。『彼』は不可能な要求をしてくる割には、それらを実際に満たすために必要な力を与えてくれることはなく、そのような希望は幻想に過ぎませんでした。」

複雑性PTSDとしてのRTS
宗教的教化の事を念頭に複雑性PTSDの定義を見てみましょう。Wikipediaによると、複雑性PTSDは「コントロールの欠如や喪失、無力化、監禁や束縛などによって、被害者が脱出不可能な状態で、長期にわたって社会的・対人的なトラウマにさらされることに起因する心理的障害」と定義されています。有害な宗教的教義や実践にさらされている小さな子供たちは、機能不全に陥った家族に依存するしかなく、囚われた状態にあると言って良いでしょう。ピート・ウォーカー(Pete Walker、2009)は、感情的なフラッシュバックを複雑性PTSDの主症状とみなすことで、新たな心理療法のアプローチを開発しました。複雑性PTSDはトラウマが長期化するため、その影響はより悪質で、広範にダメージを与える可能性がある、と彼は語っています。これは宗教から離れた多くの人に当てはまるようです。(複雑性PTSDもRTSもまだDSMには含まれていません。)

「自分の過去の話をするよう求められると、強い感情が私の体からエネルギーを奪っていくような感じがします。この傷を掘り返すと、潜在意識の中でフラッシュバックが起こり、恐ろしい悪夢に襲われます。」

「教会を去るという邪悪な選択に対して、神がどんな罰を下すのだろうかと考えて、人生のあらゆる事が恐ろしくなり、ベッドに横たわりながらも寝付けずに夜を過ごしていました。心配事と睡眠不足のせいで、生活も仕事もとても大変でした。考え事や心配事のしすぎで頭痛に悩まされていました。」

「教えられてきたことが真実か否かを何度も疑いながら、未知との戦いに挑む孤独な旅。人間本来の本能や理性を信じようとすることへの罪悪感や恐れ。悪魔や怪物によって罠が仕掛けられているとされる、未開拓の海域への道。」

「私が教えられてきた信念は、私の個人的な成長には役に立たず、神経衰弱に陥ってしまいました。この5年間、自殺未遂で入退院を繰り返し、状況は徐々に悪化してきました。毎日が悪夢そのもので、うつ状態からの逃げ道は自殺以外に考えられませんでした。自分の命を奪いたくはありませんでしたが、自殺が合理的な選択肢に思えるほど人生は惨めでした。」

「今も悪夢から目覚めたところです。夫によると、私は夜中に泣き叫び、涙を流しながら寝ているそうです。逃げ場のない空っぽの部屋に閉じ込められたように、完全に孤独で、とてもとても怖い思いをしてきました。」

なぜRTSは目立たないのか
RTSには他のトラウマとは異なる社会的背景があるため、回復の状況にも大きな違いが現れます。自然災害、幼少期の性的虐待、家庭内暴力などは、友人や専門家が同情しやすく、協力的な態度で接してくれる可能性が高いですが、宗教的虐待の場合、当事者は家族や教会員から復帰を迫られ、そうしなければ非難される事を様々な形で思い知らされることとなります。つまり、被害者が虐待の加害者のもとに戻るように圧力をかけられる、ということが起こっているのです。彼らの苦しみは見えづらいものです。実際に戻らないという選択をすると、当事者は除け者にされ、この社会的拒絶は他の種類のトラウマには無い深刻な傷となり得ます。

宗教的トラウマのサバイバーは、宗教色の強いコミュニティでは特に、多くのトラウマのトリガーに囲まれることとなります。性的虐待の象徴が社会全体で祝われる事はありませんが、RTSを持つ人はクリスマスやイースターを楽しく過ごすか、少なくとも静かにしている事を期待されます。宗教は社会で特権的な地位を占めています。至る所に教会があり、祈りや賛美歌はどこにでも存在します。多くのコミュニティで、一般的に受け入れられている宗教を信じないことは異常だとされ、社会的拒絶や雇用問題などのリスクにさらされることとなります。

他の種類の虐待に対する怒りは正常であり、受け入れられると考えられているのに対し、元信者は宗教を許し、「風呂の湯と一緒に赤ん坊を流すべきではない」(大事なものを無用なものと一緒に捨てるな、という意味の英語の慣用句)と言われます。元信者は繊細すぎると言われたり、宗教を間違って捉えていると非難されたりします。戦争の後に戦場の悪夢を見る事は理解されても、ハルマゲドンに関する悪夢はなかなか理解されません。多くの場合、元信者が感情を表現する事は危険な事です。その結果、支援ではなく、侮辱的な攻撃、つまり「被害者への責任転嫁」がなされることがあまりにも多いのです。

伝統的・保守的な観点からすると、宗教を離れて苦しむ人は、正しい事をしなかった失敗者としてみなされます。キリスト教原理主義の見方では、彼らは「反抗的」であり、自ら問題を引き起こしているのだと考えられます。うつや不安は、罪の結果や悪魔の攻撃であるとみなされることもあります。背教者は神の罰を受けるべきで、個人的な不幸は神を拒絶した当然の結果であるとされるのです。

宗教的なカウンセラーは、悔い改めて敬虔になるべきだという聖書の教えを用いて、クライエントを宗教に引き戻そうとすることもあります。その場合、RTSに苦しむクライエントは宗教の理不尽な要求に応えようと必死になる可能性が高く、これは家庭内暴力の状況に戻らなければならないかのようです。このようなカウンセラーの指示には逆らい難く、努力をしたとしてもまた失敗し、絶望し、悪や狂気に取り憑かれてしまったと考えることになりかねません。この状況で宗教そのものが悪いと結論づける宗教的カウンセラーはほとんどいないのです。(心理学の訓練をほとんど受けていないのにも関わらず、「カウンセラー」を名乗る宗教者もたくさんいます。)

一見世俗的な環境であったとしても、宗教的な意見は「普通」であるとみなされ、時にはそれが強引に主張されることさえあります。医療の現場や、薬物・アルコール依存症の治療において、専門家が宗教を用いる事は容認されています。しかし、RTSと関連した薬物乱用に悩む人々にとって、AA(アルコホーリクス・アノニマス)などの宗教的な論調は耐えがたく、共感を得られないこともしばしばです。

RTSによるパニック発作のために精神科に入院していた私のクライエントが、医師から「神との関係を正す必要がある」と伝えられたというケースもありました。他の虐待で同じようなアドバイスを受ける事が想像できるでしょうか。ある退役軍人から電話があって、退役軍人省のカウンセラーが、地獄を信じている人は行儀良く振る舞うから、そのようなクライエントの方が良いと言っていたため、別のカウンセラーを探している、と相談されたこともあります。

問題の過小評価や否認によって、RTSの被害者は何重にもトラウマが強化される可能性があります。教化された恐怖心が呼び起こされることで、以前の恐怖の状態に逆戻りしてしまうこともあるのです。宗教的虐待の不平等な社会的地位について、ある人はこう書いています。

「もし私が、キリスト教が私の子供時代を奪い、私を恐怖で満たし、不安で動けなくし、私の自我を抹消し、私の体から感覚を奪い、未来を奪い、夫婦間の不平等な役割を与え、私に何千ドルもの代償を払わせたと言おうものなら、他のキリスト教徒は『あなたは間違った教会にいたのでしょう。』『あなたは物事を深刻に考えすぎています。』『あなたは自分の自由意志に基づいて選択をしたのです。』と言って私のことを退けるでしょう。

キリスト教の外で育った人たちと話しても大して変わりません。彼らは、私が過敏になっているとか、なんでも無いことで大騒ぎしているとか、イエスが本当はどんな人だったか理解していないとか、私がこんなに素晴らしい人になったのだから、悪いことばかりではなかったはずだ、と言って柔らかに私の苦しみを否定します。

なぜこんなにも多くの人にとって、キリスト教が私の人生を完全にめちゃくちゃにしたことを理解するのが難しいのでしょうか???

もし私が差別を受けたり、殴られたり、性的虐待を受けたり、暴力行為によってトラウマを植え付けられたり、レイプされたりしたのなら、話を聞いてもらえるのでしょう。同情してもらえるのでしょう。精神的なケアも受けられるでしょう。法的な保護もあるでしょう。しかし、私は社会が無関心なトラウマの被害者なのです。」

RTSの被害者は非常に孤独感を感じています。というのも、私たちの社会では、オンラインフォーラムなどを除いては、宗教によるトラウマや精神的虐待について公に語られる事はほとんどないからです。この違和感に気づいた若者から、信仰からの脱却について彼がYouTubeに投稿している動画シリーズについての手紙をもらいました。

「トラウマに焦点を当てた動画に取り組んですでに一ヶ月になりますが、なかなかうまくいきません。トラウマについての本をたくさん読む中で、自分の信仰からの脱却の体験が、いかにトラウマやPTSDの原因とされていることとよく一致しているのかに驚かされています。宗教とトラウマの関係について語る人はほとんどいません。科学雑誌の中にも、トラウマに関するあらゆる情報源の中にも、そんな話は出てきません。もしかしたらこの問題を取り上げているのは自分だけなのかもしれないとも思っていました。」

児童保護サービスは、身体的虐待や性的虐待を受けた子供達を強引にでも救出しますが、宗教による深い傷や精神的ダメージは生涯続く可能性があるのにも関わらず、注目される事はありません。私たちの文化において、宗教組織はいまだに多くの点で特権を得ています。批判する事は非常に困難です。宗教の権威主義的・家父長制的な態度や、「あなたの父と母を敬え」という戒律の過剰な尊重の結果、過酷で暴力的な育児が正当化されているにも関わらず、親は子供を思い通りに扱うことのできる不当な権限が与えられています。カトリックの聖職者による性的虐待でさえ、向き合うのは非常に困難を極めたのです。子供達は親や教区の所有物のように扱われ、誰にも知られずに被害を受けています。

多岐にわたる課題
紙面の都合上、宗教的洗脳や宗教的環境の中で過ごした経験から生涯をかけて回復していく中で、その人が直面する可能性のある多様な課題について、十分に説明する事はできません。元信者は自分で意思決定する事に困難を覚えることが多く、批判的思考のスキルが未発達であるため、認知的に深刻な問題を抱える可能性があります。癒しと回復のためには、多くの考え方や行動を学び直し、再建する必要があります。要するに、現実の全てを再構築しなければならないのです。以前の仮定された世界がなくなるため、新しい世界を築かねばなりません。新しい自己意識を発達させ、人生に対する個人的な責任感を受け入れなければなりません。全く地に足がつかず、全てをやり直さなければならないと感じる時、実存的な危機は極めて深刻なものとなります。

「最大の問題の一つは、自分の知性を信じることができない事でした。」

「古い信念を捨て去ろうと毎日必死でしたが、一向に消える気配はありませんでした。」

「知的には平穏を得ることができたと思っています。かれこれ10年ほど、宗教の歴史や哲学などを読み、学んできました。しかし、感情的に自分を納得させる事はできず、些細なことで地獄に落ちる事はないと不安になってしまいます。楽になる事はあるのでしょうか?20年にわたって続いた脅迫、強要、恐怖、偏見の影響が消えるには、同じくらいの時間がかかってしまうのでしょうか?」

家族や友人からの拒絶もこの試練に追い打ちをかけることとなります。宗教的な家庭の出身者のほとんどは、社会構造全体を再構築しなければならず、同時に他の人々や世界に対する、全く新しい見方を学ばなければなりません。そのために新しい仕事を見つけなければならないこともあります。片方のパートナーだけが信仰を離れた場合、結婚生活に困難が生じ、離婚に至ることも珍しくありません。

「2年ほど前、教会を去ったことを家族に告げました。今でも彼らは私が3人の子供達と一緒に地獄に落ちるだろうと確信しています。友人たちは皆クリスチャンだったため、もう周りには誰もいません。宗教色の強いコミュニティの中で、孤立感と恐怖を感じています。カウンセリングが必要だと感じていますが、どこに行けばいいのかわかりません。」

「生まれてからずっと両親の宗教に属してきました。もう50代です。もし教会を離れれば仲間外れにされ、家族も友人も全て失うことになるでしょう。私は強迫性障害と重度のうつ病を患っています。私はどうしたらいいのでしょうか?私が去っても妻は残るでしょう。先には悲しみしか待っていません。」

結論として、メンタルヘルスの専門家は宗教的トラウマ症候群の深刻さを認識する必要があると信じています。宗教は大きな苦痛、家族崩壊、社会の破綻を引き起こしうるものであり、実際にそれが起こっています。十分な知識を持った専門家による理解と治療を必要としている人はたくさんいます。私たちは、宗教を批判する事はタブーであると特別視することをやめなければなりません。この問題を認識する事は私たちの倫理的責任であり、サバイバーに対しての思いやりを持つ事は人間としての義務なのです。

参考文献
Beder, J (2004-2005) ‘Loss of the assumptive world – How we deal with death and loss’, Omega, 50(4), 255-265

DePrince, A.P. & Freyd, J.J. (2002) ‘The harm of trauma: Pathological fear, shattered assumptions, or betrayal?’ in J. Kauffman (Ed.) Loss of the Assumptive World (pp. 71-82), New York: Brunner-Routledge

Janoff-Bulman, R. (1992) Shattered Assumptions: Towards a new psychology of trauma, New York: Free Press

Kauffman, J. (2002) ‘Safety and the assumptive world’ in J. Kauffman (Ed.), Loss of the Assumptive World (pp. 205-211), New York: Brunner-Routledge

Shermer, M. (2011) The Believing Brain, New York: Times Books

Van der Kolk, B. A., McFarlane, A. C., and Van der Hart, O. (1996) ‘A general approach to treatment of posttraumatic stress disorder’ in B. Van der Kolk, A. C. McFarlane, & L. Weisaeth (Eds.), Traumatic stress: The effects of overwhelming experience on mind, body, and society (pp. 417-440), New York: Guilford

Walker, Pete. (2009) ‘Emotional flashback management in the treatment of Complex PTSD’, Psychotherapy.net


Winell, M. (2011) Religious Trauma Syndrome (Series of 3 articles), Cognitive Behavioural Therapy Today, Vol. 39, Issue 2, May 2011, Vol. 39, Issue 3, September 2011, Vol. 39, Issue 4, November 2011. British Association of Behavioural and Cognitive Therapies, London. Reprinted at Journey Free website: https://www.journeyfree.org/rts/rts-its-time-to-recognize-it/

※ 翻訳はマーリーン・ウィネル博士本人から許可を得て行っています。

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