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【人生と投資、時々映画】日本を米国が本気で恐れていた時代(2024/5/2)

何故、商社マンになったのか、時々問われます。
理由はいろいろあって、金融機関にはアバウトでいい加減な自分は向いていないと思ったこと、天邪鬼な性格なので、官僚にはなりたく無かったこと、勉強が好きではなかったので、学者は無理だと思ったこと。しかし、何よりもやはり海外に行きたかったことが最大の理由でした。
では、何故、海外に行きたかったのか、それには学生時代に会った一人の日本人ビジネスマンの存在があります。その方の名は、和田貞實、またの名をクリス和田と言います。
話は33年前に遡ります。学生時代、私は模擬国連という、国連のシミュレーションをするインカレサークルに所属していました。年に一回、ニューヨークの国連本部で開催される全米大会にそのサークルから選抜された日本代表団が派遣されるのですが、私はその年、つまり91年夏に東京で開催される国際大会の広報担当として日本代表団に同行し、東京大会をアピールする役割を担っていました。私にとっては初の海外渡航。緊張の連続でした。たどたどしい英語で何とか東京大会の開催をアピールし、一段落したところで、代表団に同行していた一人の女性が、私の伯父さんがニューヨークで働いているので、一緒に会いに行かないか、と誘ってくれました。広報で疲れていたので、ホテルに戻って休みたいところでしたが、もう一人同行していた友人が、乗り気だったので、結局私も行く事にしました。その伯父さんは何でもソニーの米国法人に勤めているとの事。いわゆる駐在員なのかな、と思いながらマンハッタンの高層ビルの一角にあるオフィスを訪問したところ、初老の紳士が温かく迎え入れてくれました。その方こそが、ソニーアメリカ副社長、クリス和田その人でした。
まずオフィスに大きく飾られた、レーガン前大統領とにこやかに握手をする写真で度肝を抜かれました。この伯父さん、タダものではないぞ、と。最初は挨拶程度で30分ほどのつもりでしたが、日本からやって来た若者3人を前に思いのほか話は弾み、気が付いたら夕方になっていました。結局ディナーまで御一緒することになり、最後はホテルまで送ってもらうはめに。しかし、今振り返ってみれば、人生最高の午後でした。クリス氏が語ってくれたのは、米国に進出した一零細企業のソニーが米国市民にとってなくてはならない製品を産み出す存在になる大いなる成長と発展の物語。それは世間知らずの22歳の若造にとって実に驚くべきものでした。60年代、カリフォルニアの農園で小型トランジスタラジオのセールスに奔走した日々。当時日本製品は粗悪品の代名詞で当初は誰も相手にしてくれなかったそうです。あるいはユニタリータックスという不公正な州税に対し、日本の財界を巻き込んで撤廃運動を盛り上げ、何年もかけて廃止に持ち込んだエピソード。
特に印象に残ったのは、ソニーが家庭用VTRの販売でハリウッドの大手映画会社から著作権侵害で訴えられた裁判の話でした。1975年、ソニーは世界で初めて家庭用VTRの販売を始めます。しかし、それはハリウッドの映画配給会社にとっては、製作者の著作権を侵害する、とんでもない製品でした。ソニーは訴えられ、長く厳しい戦いが始まります。映画スターや多数のロビイストを動員するハリウッドに対し、資金力に劣るソニーは草の根運動で対抗します。『(同じ時間帯に放映される)「刑事コジャック」と「刑事コロンボ」、どちらも観たくないですか?』という広告を打ち、視聴者を味方に。さらに複製を意味する”Copy”や”Duplicate”という用語を決して使わず、“Time Shift”(タイムシフト)という造語を用い、これはあくまで時間をずらしてテレビを見る事を可能にする製品である、というロジックを貫いたのです。視聴者にはこの利便性の高い製品が裁判で危険に晒されています、と訴え、議員に手紙を書くことで世論を盛り上げようと草の根運動を展開したとクリス氏は熱く語ってくれました。
裁判の結果、1審はソニー勝利。ところが2審はまさかの逆転敗訴。最高裁に持ち込まれ、ついに出た判決は5対4で薄氷の勝利というきわどいものでした。有権者にとって良いものは最終的に必要とされるはずだ、との信念に基づいた勝利でした。このVTR訴訟を盛田昭夫会長と共に陣頭指揮を執って対応したのがクリス和田氏その人だったのです。話が面白くない訳がない。気が付いた時にはディナーも終わり、すっかり夜も更けていました。私はすっかり話のとりこになっていました。そして、僕もこのクリス氏のように海外で働くビジネスマンになりたい、と強く願うようになっていました。
これは後で分かった事ですが、このVTR訴訟を機に、米国では私的複製の例外、つまり個人が私的に楽しむための複製は著作権侵害に当たらないという「健全な常識」が一般的になり、レンタルビデオや後の動画配信の普及につながったそうです。今、我々がSpotifyやNetflixなどの配信サービスを楽しむ事が出来るのも、この時の裁判の延長線上と言えるかもしれません。ただ、皮肉な事に、まさにこの米最高裁判決が出た1984年、ソニーのVTR規格、ベータマックスのVHS規格に対する劣勢は決定的になります。88年にはソニー自らVHS規格の発売に踏み切るに至りました。
日本に帰った私は数か月後、就職活動に臨みました。何故ソニーではなく、商社に行ったのか、と思われるかもしれませんが、やはり手っ取り早く海外に行けるのは、商社だろうと考えたからでした。その願いは叶い、95年には英国に赴くことが出来ました。
クリス和田氏はソニー退職後、1999年に自宅のある米コネチカット州でマラソン中に心臓発作で亡くなりました。まだ66歳の若さでした。日本人ロビイスト第一号であり、多くのロビイストがそうであるように、一冊の本も出さず、あくまで黒子に徹されたので、その名を知る人ももう少ないでしょう。インターネットで検索しても、その足跡を詳しく知ることが出来るのはICUの卒業生のサイトのみです。

この当時の日本が清々しいのは、米国に真っ向勝負で挑んで行き、正々堂々と正論を述べ、その結果として日本製品が選ばれている事です。ホンダのCVCCしかり。松下の家電製品しかり。
これはクリス氏に限らないのですが、この時代、日本の発展のために人生を捧げた日本人は何人もいたはずです。今では否定的な文脈で使われる事の多い「バブル」ですが、この時代の米国は本気で日本の経済力、技術力を恐れていたと思います、そうでなければあれほどの圧倒的な時価総額にはならないでしょう。今、日本は自己肯定感を失っているように思います。しかし、ほんの数十年前の日本人はしっかり前を見て、正論を語り、直球勝負で世界に挑んで行った事を思い出して欲しいのです。


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