祇園木﨑のファンクラブです。 ここでしか言えないこと、プライベートな話などここで発信。 みなさんもライブやテレビの感想を聞かせてほしいです。
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芸人の仕事、パパの日常などなんでもここに。 日記のようなものです。
祇園木﨑
僕が芸人をはじめて やめるまでの物語です。
有料のものを集約してます。
パパ日記2月号です
木﨑の新米パパ日記です。
憤慨した。 私の何を知っているの?胸ぐらをつかんでそう叫んでやりたかった。 でも今年で34才だし、なんか大人げないなって。ぎりぎり踏み止まった。 何よりここはファッションビルの婦人服売り場。大声を出すことは許されない。店長の私にとってこの店はいわば聖域だ。 その聖域にまだ24才の本社から来たガキンチョ女が、一丁前にアドバイスし、私のプライベートにまで土足で上がり込んできたので、憤りを隠せなかった。 「以後、気をつけます」 そう頭を下げた私が、頭を上げる前にあの山下
NSCの狭い教室に 30人ほどのメンバーが パイプ椅子に着席した。 面接は 目の前に座る審査員 おそらく社員に向かって 1人ずつ自己アピールをしていく。 僕はそこで大きな過ちをおかす。
今年も7月東京を皮切りに 単独ツアー「ぎおんまつり」を 開催する。 今のは みなさんが思っている通り 皮切りというのを使いたかっただけだ。
高校3年の夏 同級生と組んでいた「ザ・テンションズ」で インディーズのライブに出ようと相方と 公民館でネタを合わせていた。 そこで彼は僕にこう告げた。 「指定校推薦で大学が決まった。プロになる気はない。」
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最近更新が出来てなくて 申し訳ございません。 現在、 あるものを書いてまして
6/8に森ノ宮漫才劇場にて スザキザキを開催する。 約2年ぶり。 一度でもスザキザキに 来たことがある人はどれくらいいるだろうか。 もしかしてお客さんも ガラッと変わってしまっているのか。 一抹の不安を抱えながら スザキザキについて説明をしておこう。 スザキザキをやるきっかけとなったのは
大阪から 東京進出する芸人があとをたたない。
第59回上方漫才大賞が 先日行われた。 僕たちは奨励賞候補として 2年連続ノミネートされなかった。 上方漫才大賞は 大阪で漫才をしていたら 必ず誰もが憧れる賞。 僕も紛れもなくその一人。 最終的には 上方漫才大賞というのが 大きな目標だが そこには自分たちの漫才では 到底及ばない。 そこに手をかける 気配すらない。 新人賞をいただいて もう6年が経った。 賞をもらい 少し自信がついたあの頃から もうとっくに賞味期限が切れ
道具、机、椅子、マイクあれば SE ラジオの雰囲気 さぁ始まりましたヒロトの言葉 このラジオは僕ヒロトが楽しくおしゃべりする30分の番組です
これは僕がNSCに入り、 吉本興業で漫才師として活動し、引退するまでのお話。 第1話 お笑いとの出会い 決して陽キャラとは言えなかった。 中学は野球部キャプテン 高校は学級委員を務める いわゆる優等生の量産型だった。 子どもの頃は 親の教育方針で、友達の中でも話題だった 〝ごっつええ感じ〟などのバラエティーは 見せてもらえなかった。 しかし吉本新喜劇と日曜のコメディだけは 上方の文化だと なぜか見ることを許してもらえていた。 そこである人に目を心を奪われる。 藤
マイスイートメモリーズ花谷さんが 主催する大喜利ライブが 月1回、漫才劇場で行われる。 「大喜利エンジョイライブ」 大喜利と聞くと
(肩ぶつかる) おい、お前肩ぶつかってるやろ 謝れよ なんか言えよ
2024年4月 僕は芸歴18年になり 19年目に突入する。 コンビ歴は 2008年4月25日からなので 17年目になる。 私事なのだが NSCに入ったころからは 想像していなかった未来である。
3/23に ザセカンドのノックアウトステージが 行われた。 抽選の結果 我々祇園はタモンズと戦うことが 決定していたのだが 戦った結果 タモンズに大差で負けてしまった。 その要因をひとつひとつ 分析してみようと思う。
先日ハチャメチャスキカッテボケボケーズの 公演が漫才劇場であった。 今までで最多の客入り。 もしかしたら 最終回になるかもしれないからだ。
R-1グランプリ決勝を すべて見終えた。 自分も参加していたので (準々決勝敗退)語る権利はあるのかな。 まずは 大阪の仲間、真輝志。