日本における「メディアとネット世論の関係」は健全か/「古いものは古いだけで正しい」/シャープの液晶パネル撤退/少ページ毎回連載か多ページ集中連載か/など

5月15日(水)曇り

なんだかんだとやることが多い。昨日は午前中はブログを書くのに時間がかかり、その後銀行に行ったり仕事の買い物をしたり。なんだかいろいろバタバタする。昨夜は夕食後少しうたた寝をして11時過ぎには寝て、4時に起きた。しかしなんだかんだともう7時半近く。朝はマガジンとサンデーを買いに行き、職場で少し用事をして帰ってきた。今日は大安、七十二候は竹笋生(たけのこしょうず)、二十四節気の立夏の三候。そして五・一五事件から92年。ものすごい大昔に感じるが、私が生まれた1962年からすれば30年前なのだよな。自分が生きてきた時代の長さがすでに「大昔」に匹敵するのは驚きだが、五・一五事件からの年月のすでに3分の2を生きているのかと思うと歴史というのは自分の人生に地続きなんだなとは思う。

朝テレビを見ていて印象に残ったのは、シャープが液晶パネル事業から撤退するというニュース。スマホ向けなどの中小液晶パネル事業も縮小するということで、これ自体はグローバル資本主義においては致し方ないことなのだろうとは思うのだが、液晶パネルも戦略物資的な側面もなくはないので、国内での生産がほぼゼロになるのは大丈夫かなという気はしてしまう。

今のシャープは親会社が台湾のホンハイなので日本の国家戦略に従属させるわけにはいかないとは思うのだけど、経済産業省や防衛省がどう考えているのかは気になるところではある。経済安全保障担当大臣は高市早苗さんだが、彼女の見解も聞きたい感じはする。まあコモディティ化した製品だから重要度は低いという見解だとは思うが、マスクや砲弾の轍を踏まないようにはしてほしい。

「龍と苺」191話。以下ネタバレあり。相変わらず未来編の語り手は山野辺ミクでいくのだなという感じ。苺の正体は未だよくわからないが、今回の相手の棋士もかなりの設定。5年間昏睡状態で目覚めていないがVR空間で自由に行動し研究している棋士、という設定はやはり考えはしてもやはり実際に描かれると驚く。未来編の苺がどういう存在で誰を倒そうとしているのか、私は予想はあるのだが、まあ今のところ例証もないので根拠がない。ただ、竜王戦編までで最も存在感が大きい一人、大鷹名人とは棋戦で対戦してないわけで、その辺がヒントになるのではないかと思っている。未来編に出てくるキャラクターも実は誰かの子孫だったりするのがまだ明らかにされてないというのはあるとは思う。さてどういう展開なのだろうか。

今週のサンデーは「葬送のフリーレン」が掲載されてないので今までなら買ってないのだが、「龍と苺」を読むようになったので買った。看板作品というのはやはり雑誌の命だなと思う。

マガジンは単行本を買ってなくても読んでいる作品がいくつかあるのだが、買っている一つ、「不滅のあなたへ」は今週8ページ。ずっと掲載されているのになかなか単行本が出ないのは何故だろうと思っていたのだが、週によって掲載ページ数がかなり違うので、こういう週が続くと単行本のページ数に達するのに時間がかかるのだなと思う。今は毎回ページ数が少なくても掲載されるようになっているが、以前は休載が多買った。これは月刊マガジン連載の「ボールルームへようこそ」などもそうなのだが、どちらがいいのかはなかなか難しいなとは思う。今週の「不滅」は短かったけどなんかよかった。

短い新聞への英語投稿論文だが、少し考えさせられた。

簡単にいえば、日本人はネットの情報を信用せず、大手メディアの情報を信頼するところが世界的に見れば高く、それゆえに社会的に安定感がある、という内容である。

ただよく読んでみるとこれは日本人の日本にいる大学教員二人の文章であり、外から見たという意味での客観的な内容と言えるのかとは思う。彼らのアカデミアのサークルから見た日本人の「実情」という印象があるが、ネットやyoutubeの情報を鵜呑みにする人たちの問題についてよくネットで語られている内容とはかなり距離があるけれども、リアルの世界で政治で騒いでいる人たちは基本的にごく少数ではあるから、その見方もある意味成り立つとは言えるのだろうとは思う。

問題点として挙げられているのは政府機関などオーソドックスな立場からの発信が弱いということで、これ自体はそうだろうと思う。この辺りは林智弘さんがいうようなただ政府側・あるいは科学的な立場からの主張を一方的に流すだけの受動的なフェイク情報対策だけではなく、意図的に流されたフェイク情報にはっきりと反論していく能動的な対策が必要になってきている、ということはあるのではないかと思った。

私自身としては、主要メディアの信頼度は自分の中では昔に比べればかなり落ちてはいるが、ただ外国の実態を見ればもっと地に落ちているから日本はそれほどではない、という主張も微妙に説得力があるなとは思った。

ただ現実問題として、メディアの報道姿勢に偏りがあることは事実だと思うし、その対抗馬がネットであることも世界的には変わらない。そしてそのメディアが「報道しない権利」が「これは報道されるべき」というネット側の主張に押され気味ではあると思う。その押す側がリベラル側であれ、反リベラル側であれ、また左右のより過激な集団であったり、単に暴力的な集団であったりと、さまざまな面から押されていることもまた事実だろう。

逆にいえばネット世論はあまりに各方面に分裂してしまっているので、報道メディアの側がある意味漁夫の利を得ているということもあるような気はする。

しかし芸能人の情報など、今までメディアの金城湯池だった部分が芸能人個人が発信したり、あるいは企業所属のアスリートがその情報をトヨタイムスなど企業の発信サイトで独占配信するなど、すでに影響力を持つようになった「個」の情報は既存メディアが後追いの形になっていて、ある意味メディアの役割も変わってきているのかもしれない。昔は新聞が速報性があったのにテレビが出てきてからはその座を奪われたように、テレビも個人サイトや企業サイト、何よりもSNSにある意味速報性では敵わなくなっている面はあるのだろうと思う。

そうなるとテレビメディアは新聞や雑誌が速報性とは別の側面を生かして生き残っていったような、つまりは例えば調査報道だとかに特化していく方向にいくのかなとは思う。

ただ、現状日本のメディアの向いている方向は、エマニュエル・トッドのいう「リベラル寡頭制」、大月隆寛さんのいう東京エリジウムのご意見版、意見発信場所になることで生き残ろうとしているようにみえる。彼らは戦後のアカデミアや報道の思想的主流だった左翼リベラリズムの後裔であるわけで、その力は実際に持つ勢力よりも強いだろうと思う。ただその姿勢も昨今は「リベラル大政翼賛会」みたいな感じになっていて疑問に感じる部分も大きい。

日本はある意味、世界的には音楽産業がネット配信やサブスクに流れていったのに、未だにCDなどの物理的メディアが一定以上のシェアを持ち続けている国であり、報道・娯楽メディアにおいてもテレビの力が強いなどある意味保守的・伝統的な手触りを持っている国で、こういう力がある意味法隆寺を1300年間持たせてきたのだろうと思う。新しいものが出てきても、日本では比較的古いものが残される、ということである。新しいものが出てきても、古いものも共存していくということである。もちろん全ての側面においてではないけれども。

ただ、「古いものは古いという事実だけである意味正しい」ということも最近感じるので、こういう文化的な側面は大事にしていったほうがいいと思うところがあり、テレビなどの既存メディアの生き残り戦についても注目はしていきたいと思っている。

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