赤ちゃんの時のケガについて未だに考えてしまう

*** 注意:虐待についての話です ***

すごくとりとめのない話になりそうなんですけど、

私が何度も思い出してしまうことの一つに、頭の後ろの傷があります。頭と首の付根くらいにあるんだけど。
大きくなってから傷がある事に気がついて、親に聞いたら赤ちゃんの時に間違えて階段から落としてしまった時についたんだって。

私はそれを何の気もなく疑わずにいたのだけど、
ふとある時、今まで母が私に振るった暴力性を考えるに、
『もしかして、間違えて落としてしまったんじゃなくて故意に落としたんじゃないだろうか?』という気持ちにとらわれて、その可能性がずっと頭から消えません。

私が覚えている一番古い暴力は小学校に上る前、幼稚園の時かその前か、文章が喋れたのでそれくらいの年齢だと思うんだけど(私は子供を育てたことがないので、文章を喋れるのがどのくらいの年齢なのかちょっとわからない)、
母と一緒に行ったスーパーで母の知り合いに会って、その時に何か母に都合の悪いことを言ったらしく(子供だから多分無邪気に話したんだと思う。お母さんは朝起きないよとか)。
家に帰って玄関のドアを閉めてから「調子こきが、ぺらぺら喋ってんな」みたいなことを言われてむちゃくちゃに殴られたのだ。

うちの母親がいつから暴力衝動を抱えていたのかは分からないけど、小さい子をそんな殴り方する人が、相手が赤ちゃんの時に我慢がきくとはとても思えない。大きくなってから叩くみたいな分別のある人だったら道具を使ってめちゃくちゃに殴ったりしない。
そう考えると、抵抗ができず、なおかつ母を苛立たせやすかっただろう乳児の頃に暴力がなかったというのは考えづらい。

と思うと、この傷は故意なのではないかなあ、
いくら考えてもその答えは既に母当人の頭からも消えてどこにもないかもしれないし、
答えがわかった所で何をできるわけでもなく、どういう気持ちの整理ができるかも分からないし何にもならないと思うんだけど、

ついつい考えてしまいます。

あと暴力衝動のある人に生殺与奪権を委ねるというのは怖いね。
赤ちゃんの時には殺されそうになっても逃げられないから…どうしたらよかったんだろう、いや、私は何もできなかったのだ。だからこんなことを考えても仕方ないんだけど。

生物学的には、暴力衝動を抱えているような欠陥者のDNAを残さないためにその子どもが暴力を振るわれて死ぬというのは良い遺伝子を人間全体に残すためには仕組みとして良く出来ているような気もしなくもない、当事者としては勘弁して欲しいけれども。

こういう、考えても仕方のないことが、飲み込んでしまった大きめの魚の骨のように時々私を苦しめて生きづらくなるので、
そういう記憶と癖を持った私は他の人に比べて人間として劣性なのかなと、また自分を低める方向で考えてしまったりもする。

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