『他人を傷つけないよう強くならなければ』というのは傷つけられた側の抑圧だったかもしれない、という話

ふと、自分が20代前半の時に『強い人間は他人を傷つけない』という言葉を何度も自分に対して繰り返していたことを思い出し、違和感を覚えた。

その言葉自体は間違ってはいないとは、今でも思う。
他人を傷つける強さより他人を傷つけない強さのほうが難しいし、より価値があると思っている。言い直すと、他人を傷つけるのは心が弱いからで、傷つけないようにするほうがずっと強さを求められると思っている。

しかし、その言葉を自戒的に20代前半当時の私が繰り返していたのは、なんとも妙だ。

どうしてかというと、当時の私はとても他人を傷つけるような勢いのある人間ではなかったからだ。か弱く、思ったことも言えず、例えば『自分の身を守る』のような自分の当然の権利も主張できず、むしろ傷つけられる事のほうがずっと多かったように思う。

それなのに、なぜあんなにも、強迫観念のように『強い人間は他人を傷つけない(だから強くならなくては)』と思い続けていたのだろう。

一つの解として思いつくのは、当時の私は他人に対する非常に多くの怒りを内部にためていたのではないか、という説だ。
当時の私は生家での虐待経験もうまく認識できず、他人に親への愚痴のようなものと、親に認められたささやかな経験を繰り返し話し、「なんだかんだ言っても仲がいいんじゃないか」など言われて、自分の苦しみをうまくなかった事にできず落ち込んだりしていた。(まだ親のことも避けていない時期で、札幌の一人暮らしの部屋を訪ねた母親がささやかな事で逆上し殴りかかってきて、恐怖のために家を着の身着のままで逃げ出し友達に匿ってもらい、母が帰るまで自分の部屋に戻れない、という事もあったっけ。)

これは当たり前のことだけど、人は、理不尽に危害を加えられると、対象者が誰であれ怒りを覚えるものなのだと思う。相手が親だから怒りが生じない、相手が友達だから怒りが生じないということはなくて。
多分怒るという事象には、自分を防衛するための正常な心の動きという面もあるのだと思う。怒りをちゃんと自覚的に認めないと、その先もうまくそういった被害を避けられない。

私はその怒りを関係性や抑圧のために心のなかに押し込めて押し込めて、外に出さないように出さないようにした結果、『何だか分からないけど、私は他人を傷つけてしまうんじゃないか』(他人というのは見知らぬ他人ではなく、過去に危害をこちらに加えてきた親や友人)『関係性のためにも、彼らに怒ってはいけない、傷つけてはいけない。私は強くならなければならない』という思いのもとに、念仏のように『強い人間は他人を傷つけない』という言葉を繰り返していたような気がする。

今の私には『強い人間は他人を傷つけない』という言葉はあまりピンとこない。私は強くないって思っているからだ。
強くならなければならないという強迫観念もあまり残っていない。

人生で色々な辛いことがあったし、それをうまく乗り越えられた気も全然しない。まだまだ傷ついているし、うじうじしているし、害は続いている。
自分が弱いのは分かっている。私は強くない。そんなに多くのことを抱えていたら壊れてしまうから抱えるべきじゃないし、傷つけられることに対して我慢するのではなくうまく逃げないといけない、ということも、もう分かっている。

今私にまず必要なのは、他人を傷つけない配慮よりも、自分を守り癒す力だ。
今は自分が傷つけられた事を認識しているし、私にはそれを怒る権利や身を守る権利もある、と、思えている。

道端を歩いていたら殴りかかられた、それは殴りかかってきたやつが悪いのであって痛がる私が悪いのではないし、『殴りかかってきた人が気を悪くするから痛がってはいけない』という妙な抑圧に苦しむ必要は全く無い。

私がこの言葉を言うべきなのは、自分にではなくて、他人を傷つけることが自分の強さの証だと思っている人間に対してだ。

この文章はここで最後です。続きはありません。(お布施制)

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