エッセイ_002

【エッセイ】お金の正体がわかれば、世界を変えられる【#002】

(この文章は約10分で読むことができます。)

今回も少々抽象的な難しい話をするかもしれないが、みんなが大好きなお金の話だ。誰しもが、一度は考えたことがあるだろう。「もし、宝くじが当たったらどうしよう。」私も隙を見ては、宝くじを買い、理想の生活を手に入れようと試みている。

無職の期間に、ふとこんなことを考える機会があった。「このままずーっと、無職だったらどうしよう。お金がなくなったらどうしよう。」先の見えない不安や、仕事を辞めた後悔に悩まされる瞬間があった。

そして、その不安はやがて、次のような疑問へと繋がった。「なぜ、お金なんてモノがこの世にあるのだろうか。」

一応、私は社会科の教員免許を持っているので、お金が生まれた理由の大体は知っている。お金は価値の貯蔵のために誕生したものだ。人類がまだウホウホ言っていた時代、食べ物は長く保存ができない肉や魚がメインであった。そこに、保存ができる穀物が入ってきて、食べ物を貯蔵しておくことができるようになり、貧富の差が生まれた。そこから、自分が持っている「価値あるもの」を蓄えることが始まったのだ。その「価値あるもの」の姿が、最初は実用的な「もの自体」であったが、それが「代用品」へと変わっていった。

「君が持っている木の実が欲しいんだけど、代わりにあげるものがないんだよね。だから、今は手元にないけど、秋になればたくさんのお米が入るから、そのお米の代わりに、この珍しい石を渡しておくね。秋になったら、その石をお米と交換するからね。」

これが、お金の始まりである。秋になればお米をくれるという約束を信用して、石と木の実の交換が成立するのである。つまり、価値がない石に、お米をくれるという約束の「信頼」をつけることによって、石ころに価値が生まれるのである。

時が進むにつれて、石は金や銀へと変わり、今では紙に変わっている。交換するものも、木の実からパソコン、ブランドバック、ミサイルなど様々なものと交換することができるようになった。そして、お米をくれるという信頼は、国が、「この紙には一万円の価値があることを保証します!」というように、共同体への信頼そのものが、過去の偉人たちが描かれた紙に価値を与えるように制度が変わっていったのだ。

他にも、複雑な仕組みがあるが、お金誕生の経緯はこのようにまとめられるだろう。つまり、信頼という価値を石ころに乗せることによって生まれたのがお金なのだ。そして、お金が誕生したことによって、圧倒的に人間の暮らしは便利になった。目に見えないはずの信頼という価値を、具体的な物に変換することができるようになったからだ。

ここで、今回の話のポイントを1つまとめてしまおう。お金は、数多くある価値を、目に見える形に表したものである。言い換えれば、お金が価値そのものではないし、お金のみが価値を表すものではない。

堀江貴文氏の著作『本音で生きる』の中に、次のようなことが書かれていたのを覚えている。

「したいことをできない理由なんか、本当は1つもない。お金がないならば、投資してもらえばいい。お金は簡単に作り出せる。銀行は意外と簡単にお金を貸してくれるし、銀行がだめなら、友人でも両親でも頭を下げればいい。お金は信頼の証で、信頼できると思う人ならば、お金を貸してくれる。」

本文のままではないが、大体こういった趣旨の内容であったと思う。やはり、お金は信頼という無形の価値を表すもの。「この人ならば信頼できる!」と思った人は、お金を渡してくれるのだ。だから、お金を銀行に投資してもらおうと思う人は、少しでも自分のことを、または、自分がこれから行おうとしている事業を信頼してもらえるように、綿密な事業計画書を作成するのだ。それが作ることができない人ならば、自分の人間性を信頼してくれる友人や、無条件の愛という信頼でつながっている家族に、投資のお願いをするのだ。

ここまでは、「お金=価値を目に見える形にしたもの」という話をしてきた。今回、おさえてもらいたいポイントがもう1つある。それは、「価値があるものは、別の価値があるもので代用ができる」ということである。お金は価値があるものだ。つまり、お金は別の価値があるもので代用が効くということだ。

では、お金の他に、「価値があるもの」には、どんなものが挙げられるだろうか。もちろん、お金と交換して手に入れた、自動車やブランド品には価値があるだろう。また、話の途中に出てきた人と人との信頼関係にも価値があるということもわかるだろう。

私が今回のエッセイで声を大にして言いたいことのヒントは、まさにこの信頼関係に価値があるという点である。つまり、「価値があるもののほとんどは、無形、目に見えないものである。」ということだ。

どこかのカード会社が、「お金で買えない価値がある。プライスレス。」というCMをやっていた。もちろん、本当に大事なものは値段がつけられないということは、私も一部は認める。しかし、つけようと思えば、大体のモノ・サービス・経験・人間関係には値段をつけられる。それが、現実性を伴う数字になるかどうかは全くの別問題だが。私の主張はあくまでも、「価値があるものは、別の価値があるもので代用ができる。」ということである。

例えば、先ほどの例を具体化して考えてみよう。親友と呼べるほど仲が良い友人に、「何も言わずに200万円貸してくれ。」と言われた場合。あなたには、200万円を貸せるだけの余裕がある。そこで、200万を貸すのであれば、その友人関係には200万以上の価値があるということだ。200万を貸すことを渋るのであれば、その友人関係は200万以下の価値、つまりは、新車の普通車以下の価値であったということだ。

「そんな冷たいことを言うなんて、この黒木って奴はひでーやつだな。人にはいろいろ状況っていうもんがあるんだよ。きっとコイツは友達が少ないに違いない。」という声が聞こえてきそうである。友達が少ないことは確かだし、自分でも血の通っていない思想だと思う。

しかし、この友達が少ない輩は、気づいてしまったのだ。この「価値があるものは、別の価値があるもので代用ができる。」という思想は、目の前に広がる世界で起こる大体のものごとに当てはまってしまうことを。そして、それは果てしない希望を与えてくれたのだった。

先に書いてしまおう。目に見えない価値のあるものの代表例は、時間、能力、信頼、幸福である。これらは、お金に代用が可能だ。

例えば、仕事。あれは、労働者の時間と能力を、お金に代えている行為だ。だから、一般的に勤労時間が長い仕事ほどお金をたくさんくれる。時給という考え方だ。二軍のプロ野球選手と一流のメジャーリーガーで年棒が違うのは、能力が違うからだ。誰にでもできるようなプレイには、それほどの価値はないが、165キロを投げられる才能はかなり珍しく貴重なものであるから、年棒は跳ね上がる。

日本では、かつてから長く勤めていれば、その分給料が上がるという年功序列という制度があった。これは、時間と能力のほかに、信頼という価値が給料に加算されていたのだ。この人は会社に長く勤めてくれているから、会社に不利益になるようなことはしないだろう、という信頼が給料を上げているのだ。しかし、最近の会社は、信頼よりも能力に価値の比重を置くようになっているため、年功序列制度が影を潜めるようになってきているのだ。

例えば、買い物。自動販売機とコンビニで同じジュースでも値段が違う。多くの場合、自動販売機の方がジュースの値段は高い。もちろん、電気代などのコストの問題もある。しかしここでは、自動販売機の方が高い理由を今回のエッセイのテーマである「価値の交換」の視点から考えて直してみる。店の中に入って買う場合、お金以外の価値が発生しているのだ。それは、時間だ。お店に入り、商品をとりにいき、レジに並ぶ。この時間が、自動販売機とコンビニのジュースの値段の差であると考えることができる。自動販売機のジュースが160円、コンビニのジュースが130円ならば、コンビニに入ってお金を払うまでの時間の価値が30円分であると考えることができる。

他にも、形のない価値のあるもの同士でも、交換は行われている。

例えば、家族との大事な一時。これは、家族と一緒にいる幸福という価値に対して、自分の時間という価値を支払っていると考えることができる。だから、幸福を感じている時間、何かに没頭するほどの幸福な時間というものは、退屈で幸福を何も感じていない、例えばつまらない学校の授業の時間なんかよりもあっという間に過ぎ去るのだ。幸福という価値の対価を時間という価値で支払っているからだ。

今の私もそうだ。職を辞めて間もないうちは、することがなく、ボーっとして時間が多かった。時計を何回見ても、まったく針が進まないのだ。しかし、今、このエッセイを書いているときの時計というものは、こんなにも気が短い奴だったかと思うほどに、あっというまに針をグルグルと回すのだ。私は今、何かに没頭できるという幸せの対価を、時間という形で惜しげもなく支払っている。

具体例はいくらでも挙げることができる。他の例は、また別のエッセイを書くときに取り上げようと思う。自分が気づかないところで、価値の交換は勝手に行われている。そして、この価値の交換は、自らの手で積極的に行うことも、もちろん可能なのだ。ここから、この思想は、様々な人に手を差し伸べる天使のように、あるいは、あらゆる人を食い尽くす化け物のように姿を変える。

例えば先ほども出てきた、お金を友人に貸してもらう場合。最初から、友人に返すという気持ちを持たずに、お金を借りたとしよう。それは、自ら友人との信頼という価値を、お金に代えた行為である。つまり、お金を手に入れる代わりに、信頼を手放すという積極的な価値の交換を行ったのだ。

この逆の場合もある。手切れ金という制度だ。これは、お金を支払う代わりに、その人から得ていた迷惑な信頼を切るという制度である。手切れ金を突き付けられた人間は、その人への信頼を強制的に奪われる代わりに、お金を手にすることができるのだ。

例えば、麻薬の密売の仕事。あれは、犯罪に加担することで社会からの信頼や、罪を犯した罪悪感からくる不幸の代わりに、他の仕事よりも高額な給料をもらうことができる。

ここまではマイナスなイメージを例に挙げたが、もちろんプラスの事例も多くある。

例えば、自分に能力がないばかりに仕事でミスをして信頼を失ってしまった場合。その信頼を回復したいと思うならば、自分の時間を他人よりも多く仕事に捧げることによって、その信頼を回復することができる。

(しかし、この他人から、会社から信頼されようと思いが強すぎる余りに、過労死という許されざる事件も起きている。この件についても、いずれ別のエッセイで書こう。)

例えば、一般的には仕事にすることは難しいと言われることを仕事にしたいと夢を見る人。そう、小説家や役者、アイドルなどになりたい人。自分の好きなことを仕事にするという幸福という価値を手に入れるためには、それと交換する品物が必要なのだ。才能があれば、その才能。お金があれば、自費出版や世界に推してもらうための裏金といった形で使えばいい。

また、いつの日か夢が叶うことを信じて、時間という品物を差し出してもいい。もちろん、どれほどの時間が必要となるかはわからない。何十年もかかるかもしれない。しかし、いつか必ず夢はかなう。その時間をかける方法と、時間をかける場所を間違うことがなければ。時折、この時間をかける方法と場所が違うのに、夢のために頑張っていると口にする人がいるが、それでは幸福という対価は支払われない。「ラーメンください。お金はあります。」と寿司屋にいくら言ってもくれないのと同じことだ。

私も昔から文章を書いてお金が入ってこないかなー、演劇が仕事にならないかなーと漠然と考えるだけで、何もしていなかった。自分の時間をそのことに全く支払っていなかった。だから、このnoteを始めた。文章を書くことに自分の時間を支払い始めたのだ。そして、誰でも見られる場所に、文章を置いておく。また、なるべく多くの人が文章を読んでもらえるような工夫をする。時間をかけて、どうすれば自分の文章をより人の目のあるところにおけるかを調べるようになった。いつ叶うかはわからないが、いつかその対価が支払われることが必ずある。

そして、若干もうその対価を受け取ってしまっている。先ほども書いたが、文章を書くことが楽しい。この楽しさは幸福であることに間違いはない。

また、Twitterからこのnoteを見てくれる人が、わずかでもいることがわかった。たとえ5人でも私の文章を読んでくれているという事実が、この上なく嬉しかった。

すると、もっと良い文章を。もっと楽しい文章を書こうというやる気が沸いてくる。これもまた、幸せなことだ。

少々脱線したが、今回の内容をまとめる。「価値があるものは、別の価値があるもので代用ができる。」価値があるものの代表例は、お金、時間、才能、信頼、幸福だ。これら5つは、それぞれにお互いに交換可能である。

(忘れてはならないことは、その個人によって、それぞれの価値の重さが違うし、その個人によって何を幸福と感じるか異なっていることである。自分の価値を他人の価値に押し付けることは、当然争いの種になる。)

この考えが、すこしでも多くの人の人生に救いを与える天使になることを、私は望む。

前回と今回で、私の思想の根幹を紹介できたつもりだ。難しく長い文章も時々は書きたくなるので書いてしまうが、次回からは、もっとフランクに、そして、ポップでキュートでユーモラスな文章を書けるように心がけていきたい。

(読んだ文章の中に、何か心に残るところが一か所でもあれば、Twitterで拡散、黒木のnote、Twitterのフォローなどよろしくお願いします。)


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