エッセイ_004

【エッセイ】元教師の現無職、「過労死」から救いたい【#004】

(この文章は約5分で読むことができます。)

働いていた時はテレビを見る余裕なんて無かった。仕事がうまくいかなくなり精神的にも肉体的にも追い詰められ、母親に相談の電話した時に、私が世間の話題を知らなくて驚かれるほどであった。仕事を辞めてから、もともとテレビっ子であった私は、テレビを再び見るようになった。そうして飛び込んできたのが、電通の過労死の報道であった。

確かに、今の人の心は軟弱なのかもしれない。昔の人が若返って、今の労働環境に置かれても平然と生きていけるのかもしれない。その世代間のギャップは確かにある。

大事なことは、このギャップを埋めるための努力を、下の立場の人も、上の立場の人も行うことだと思う。上の立場の人が「深夜まで残って仕事を行うことは当たり前だ」と押さえつけることや、下の立場の人が「昔と今では環境が違う」と拒絶することは間違っている。上の立場の人が働いている人のことを考えてくれると、下の立場の人はこの会社のために微力ながらもできることはないかと考えるようになる。こんな環境がおそらく理想的なのだが、そんな会社が少なくなっているのが今の問題なのだろう。

今日は、世間への不満というよりも、「はたらく」上で大切な心の余裕というものをテーマにしたい。

「はたらく」ということは、自分の時間と才能をお金に変える行為であろう。自分が支払った時間と才能の対価が、お金という形に十分に返ってきているのならば、何も問題はないだろうが、一つ大きな問題がある。それは、「はたらく」という行為に、自分の幸福までも捧げてしまっていると、対価として支払われるお金がいくら莫大であっても、満足感が得られないことだ。本来は、「はたらく」は「はた楽」「はたlike」で幸福も一緒に得られる行為でなければならないところ、「はたら苦」「はた落」になってしまい、自分の幸福が失われてしまっていることが問題である。

私自身の経験で語ってしまうが、「はた楽」へのカギは、何のために働いているか、その目的意識がはっきりとしていることだと思う。

自分の充実感のためになっている人は何も問題はないだろう。

家族の生活のためとなっている人は、自分が倒れると家族が路頭に迷うことを想像しながら働くことができれば、大丈夫であろう。本当に家族のことを思うのであれば、限界を超えて働くことは家族にとって一番不幸な結果になるということを十分に覚えておいてほしいと思う。

何のために働いているかわからない人は、要注意だ。できれば、仕事を辞めた方がいい。私も最終的にはこの状況に陥った。私は働くことの理由が、ある日突然抜け落ちってしまったのだ。

私は圧倒的に幸福な環境で育ってきたため、苦しい思いをする職場で働かなくても生活できることにある日気づいてしまった。自分には面倒を見なければならない家族も、愛する人もいない。ならば、なぜ働いているのか、まったくわからなくなってしまったのだ。

「なんだよ、ボンボンの息子の話か。読む気失せたわ。」と思った人も、もう少しだけ読んでいただきたい。

私が大好きなテレビ番組に「水曜どうでしょう」という番組がある。その番組のDVDの副音声では、番組のディレクターたちが、番組とはほとんど関係ない話をするのが恒例になっているのだが、その中で人生論が実に面白く、深いのである。その中で、次のような話をしていた。

「今の仕事がだめになったら、山に籠って、木の実を食って生きればいい。」

この話はあくまでも極論だが、大事なことは「企業と呼ばれる場所からお金をもらって生きていくことが人生のマストではない」ということ、その考えをもつことが気持ちに余裕を与えることだ。

また、別のところでは、次のような話もしていた。

「何十年っていうローンを組んで家を買うと、まるで家の建設費のために、一生働いているようだ。ならば、いっそのこと、自分で建てちゃえばいい。何を馬鹿なことを、と思われるかもしれないけど、自分のひいおじいさんくらいの代までだったら、自分で家を建てるっていうことが選択肢の中にたぶんあったと思う。」

『北の国から』というドラマで、田中邦衛が演じていた黒板五郎は、自分で家を建てていた。全員が全員、そんな生活ができるとは到底思えないが、やろうと本気に思えば、やろうとして勉強すれば、家くらいなら建てられるんじゃないか。私はやろうとは思わないが。

私が何を言いたいのか。要は、「会社に就職する→お金をもらう→生活する」という考え方にがんじがらめに縛られてしまうことは、危険だということだ。苦しい思いをしているその職場で働かなくても生きているという考えは、意外と誰でも持つことができるということだ。

何も会社に就職しなくても、お金を稼ぐ手段はいくらでもある。起業なんてもっと無理だと思った人は、自営業をしている人、例えばラーメン屋のじいさんもスナックやってるおばさんも、みんな起業者だということを忘れてないか。

何もお金がなくても、生活はできる。親に泣きつけば、少しは面倒を見てもらえるだろうし、それこそ山に入れば食べられるものはたくさん落ちてる。世間からの目はあるだろうが、死んでしまうよりはマシだ。

極論的な話が続いて申し訳ないが、過労死してしまうほどの人も、極論的にまで追い詰められているのだ。つまりは、「死ななければこの会社を辞められない」「生活するためにはこの会社に死んでもしがみつかなければならない」と。

だからこそ、今働いている人は追い詰められることを防ぐために、この文章を読んで、少しでも心に余裕を作ってほしいのだ。「最悪、山に籠って木の実を食えばいい」と思えるほどになってほしい。

もちろん、気まぐれに仕事をサボりたいという人を肯定する意図は全くない。仕事は真剣にやるものだという前提で話をしている。追い込まれてしまう人の大体は、度がすぎるほどに真面目だから、この前提は当然のものとして、心身に染みついている。

気持ちに余裕をもった上で、もう一度、「何のために仕事をしているのか」を考えてほしい。

他人からの目は関係ない、世間体は関係ない。自分の人生、どう歩んでいきたいのか。その自分の人生の中で、仕事はどういう位置づけなのか。その答えが、「仕事は生活のために仕方なくやっていることだ」という人へ、そんな仕方なくやっていることに、自分の人生の全てを注がないでほしい。

と、仕事から逃げた無職がほざいております。

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