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BAR Borderへようこそ《短編小説》

 凪子はただひたすらに歩いた。脇目も振らず、ずんずんと歩いた。巧太に手ひどく振られた凪子は、街中のたくさんの人の中で巧太の頬を平手打ちにして、踵を返すとずんずんと歩いたのだった。行先なんて関係なく、ただ道が繋がっていれば前に進んだ。涙が一滴も出てこないのは、卑怯な男には未練はないからだと思った。あろうことか、巧太は凪子の親友の菜々美に乗り換えたのだ。「絶対に許さない」と思う。速足で歩く凪子の息が白く吐き出される。ハハッと乾いた笑いまで喉の奥のほうからせり上がってきていた。
 
 悔しかった。巧太だけではなく、白々と凪子をだまして纏わりついてきていた菜々美も許せなかった。こんな裏切りはないと思った。二人してまるで何事もないかのように凪子をだまし続けていたのだから。「許さない、許さない」凪子は絞り出すような声で繰り返したのだった……。
 
 どれくらい歩いたのだろう、気づくと裏路地の行き止まりまで来ていて、自分がどこにいるのかも分からなかった。凪子は喉がカラカラになっている。蛍光灯に照らされた周りの雑居ビルの壁は埃が舞い上がっているようにくすんだ灰色に見える。行き止まりの塀の上を黒猫がにゃぁと鳴きながら軽々と歩いてゆく。北風が舞い上がってスカートをめくり上げようとするのを右手で抑え込みながら、凪子は改めて周りを見回した。
 
「ここどこなんだろう?」凪子は急に不安になって呟く。変なところまで来てしまった。怒りに任せて歩き続けるんじゃなかった。凪子は後悔した。辺りを覗き込むようにしてそろそろと歩いてみる。もう、勢いに任せて歩く気力はなくなっていた。
 
 ふと雑居ビルの地下へ続く階段の入り口に小さな看板が目に入った。「BAR Border」と書いてある。カンテラがちらちらとその看板を照らしている。凪子は人気のないビル街の小さな灯りにホッとして、吸い込まれるようにその看板のところまで歩いた。「BAR Border」の文字の下に、小さく「ここは人生の境界線です。御用のかたはお気軽にお入りください」と書いてあった。凪子はフッと笑いが込み上げてきた。「境界線だなんて、今日の私じゃん。正気限界ぎりぎりだもん」と呟くと、迷っていた足先が吸い込まれるように地下に続く階段へと向かった。
 
 古いオーク材でできた扉をそうっと開けてみると、中はアンティーク調のカウンターバーだった。狭い店内をステンドグラスの灯りがオレンジ色に照らし出している。カウンターの中には、白髪交じりのマスターが白いカッターシャツの袖をたくし上げてグラスを白い布で磨いている。「カランコロン」とドアの振動で鳴ったベルの音にマスターが顔を上げて凪子の顔をみると優しい笑みを浮かべて「いらっしゃいませ」と、グラスを磨く手を止めて言うのだった。
 
 一瞬入るのを迷った凪子はとても喉が渇いていたのもあり、落ち着いた雰囲気の店内に惹かれて、結局ドアから体を滑り込ませた。
「どうぞ」と、マスターはグラスを置いて凪子を迎え入れる。
 凪子は「こんばんは」と小さく言うと、一番奥の椅子におずおずと座った。一人でバーに入るのは初めてだったし、お酒を飲む習慣がないのでどうしたらいいのか戸惑っていた。
 マスターは心得ていると言わんばかりにティーカップを出してくる。そして、まるで凪子が来るのが分かっていたように沸かしたての紅茶をカップに注いだ。
 
 マスターはさり気なく紅茶で満たされたカップを凪子の前にそっと置くと、ジャムのポットを二つ前に置いた。
「え?」と凪子はマスターの顔を見つめる。
 するとマスターは、
「これはロシアンティーです。ジャムを入れて召し上がれ」と静かに言う。
「ただ、」とマスターは言葉を続ける。
「ただ?」凪子は訊ねる。
「そう。ただ、オレンジ色のジャムも赤いジャムも願いを叶えるジャムなのです。入れられる量は決まっているからお好きなものをよく考えて入れられるといい」と、手元にあるグラスから一口水を含むとにこりと笑って見せた。
凪子は意味が分からず訊ねる。
「願いを叶えるジャムってどういうことですか?」
マスターは少し黙り込むと、息を継いで話し始めた。
「この店は人生の境界線に立ったときにしか入れないのです。あなたがこうして店に入ったということは、あなたが人生の岐路に立っているということです。この紅茶は人生の行く先を決める飲み物です。オレンジのジャムはあなたを裏切った二人が幸せになるジャムです。けれど、その傷を癒してくれる新しい恋をあなたに運んでくれます。赤いジャムは裏切った二人がひどく傷つけあって別れるのです。けれど、あなたにも恋人は現れなくなります。どちらのジャムを紅茶に入れますか?」とゆっくりと説明して、どちらのジャムにするか訊ねたのだった。
「どうして私のことを知っているのですか?」と訊くと、
「私はそういう者ですから」と、マスターは伏し目がちに静かな口調で言う。
 凪子は驚いて目を大きく見開いたけれど、全てを承知しているマスターの問いかけに、凪子は痛いところを突かれたことのほうが気になって黙り込んだ。今は自分の幸せよりも、巧太や菜々美を地獄にでも突き落としたいほどの気持ちでいるのだ。凪子は唇を嚙む。あれだけ出ないと思っていた涙がとめどなく溢れ出てくる。
 
 その様子を見て見ぬふりをしながら、
「人生はプラスマイナスゼロで出来ています。人の不幸を望めばあなたの幸せはその分減ってしまう。あなた自身の幸せを望めばあなたに降りかかる不幸がその分減るようにできているんですよ。ですから紅茶に入れるジャムをどちらにするかよく考えられるといいのではないかな?」と、優しく話すマスターの眼光はどことなく鋭く感じられる。
「さぁ、タイムリミットは紅茶が冷めるまで、です。よく考えてジャムを入れて飲まれるといい」と言うと、マスターはまた白い布を取り出してワイングラスを磨き始めた。
 
 
 凪子は少し焦った。紅茶が冷めるまでに決めないといけないとは。今の気持ちの勢いだと赤いジャムを入れられる限界まで入れてしまいそうだ。そもそもこんな夢の中にいるみたいな話なんて起き得るのかとうっすらと疑いの気持ちも湧き上がってくる。けれど、これが本当に起こっているとしたらどうしたらいいのだろう。凪子は涙で濡れた頬に触れながら、巧太と菜々美の顔を思い浮かべて考え込んだのだった。
 
 ふと我に返ると、マスターがじっと凪子のことを見つめているのに気づいた。
「もうすぐタイムリミットですよ」静かに、けれどどこか威厳のある声でマスターが告げた。もう迷っている時間はないらしい。
 
 凪子は二人を幸せになんてしたくない気持ちでいっぱいだった。墜ちるところまで堕ちればいいとさえ思った。震える手でジャムのポットに手を伸ばす。最後の最後まで迷った凪子は、けれどオレンジ色のジャムを手に取ると震える手でスプーンを取り、ジャムをすくって紅茶に落とすと、後はもう何も考えることができなくなって紅茶を飲み干したのだった。
 
「間に合いましたね」と柔らかな笑みを浮かべてマスターは言う。
 現実と夢の間にいるような気持ちの凪子はこれで良かったのかと悩みながら、置かれた水も一気飲みしてしまった。
「これでいいんですよ」とマスターは凪子の心を読んだように言う。
「本当に?」少し上目遣いになりながら凪子は問う。
「酷いことをした人というのは、自然と世の中から淘汰されるものです。いつかどこかでしっぺ返しを喰らうのです。よく思い切ることができましたね。人生の岐路で選択を間違える人も多いのに」と、安堵した表情を浮かべて、手に持っていたワイングラスと白い布をカウンターに置いた。
 
「これは現実なの?それとも夢なの?」凪子が問うと、
「夢と現実のはざまにいるのです。けれど、これは現実に起こること。あなたはオレンジのジャムを選んで良かったと思える時が必ず来ますから」とマスターが優しく言うと同時にバーのドアがベルを賑やかに鳴らしながら開いたのだった。
 
「さぁ、このドアを出たら、左にまっすぐお行きなさい。大通りに出たら朝も一緒にやって来ますから、家にも無事に帰れるでしょう」そう言うと、凪子の手を持ってドアのほうへ行くように促したのだった。
「あの、お茶代は?」と凪子が訊くと、
「お代はいりません。正しい選択をされたのだから」と、マスターは答えるのだった。
 
 凪子は一度ふるりと身震いをすると、思い切って立ち上がりドアの外に出る。
「ありがとうございました」と頭を深く下げて、階段を駆け上ると左を向いて走り出したのだった。五分も走っただろうか、大通りが見えてきたと同時に空が明るくなってきたのだ。向こう側のビルの隙間から朝日が差し込んでくる。凪子は思わず振り返ったけれど、もうあのバーの小さな看板もカンテラも見えることはなかった。
 
 
 
 一年後、凪子は新しい恋に出会って幸せを謳歌していた。風の便りに、巧太と菜々美は幸せな結婚をしたと聞いた。けれど、もう過ぎたことなのだ。凪子にとってはもうどうでも良くなりつつあることだった。あの時あの紅茶に赤いジャムを入れていたらと思うと凪子はゾッとする。新しい恋に出会えることもなく、復讐に心を燃やして醜い女に成り下がっていたのだろうし、一生幸せになれなかったかもしれないと思うと、オレンジ色のジャムを選んで本当に良かったと胸を撫でおろす。あのマスターは今もあの雑居ビルでバーを営んでいるのだろうか。夢と現実のはざまに佇む真夜中のBAR Border。またいつか人生の岐路に立った時、凪子は正しい答えを選べるだろうか。そして、あのマスターに会えるのなら人生の選択を間違えないような気がするのだ。
 
 そうして、凪子は凪子だけを想ってくれる優しい恋人に会うために、待ち合わせの場所へと駆け出したのだった。

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