K.Narita

私は29歳の冬にやっちゃばの世界に足を踏み入れ、採用先には野菜博士が!未知の野菜に30…

K.Narita

私は29歳の冬にやっちゃばの世界に足を踏み入れ、採用先には野菜博士が!未知の野菜に30年以上関わり、日本に新野菜を広めた野菜博士の一代記を綴ります。

最近の記事

やっちゃば一代記 思い出(18)

大木健二の洋菜ものがたり  市民権取れません 食用タンポポ  新しい野菜、珍しい野菜なら私のところに必ずある、と周りから見られていたものだから、あまり儲からない野菜でもついつい揃えてしまっていました。食用タンポポもそんな野菜のひとつでした。わたし流にいうと、いまだに市民権を取れていません。築地時代に取り扱っているたのは一軒か二軒ぐらい。イギリスでは古くはピサンり(おねしょの意味)と呼ばれていました。 その意味から分かるように、あまり愛着を持たれていなかったらしいですね。一方、

    • やっちゃば一代記 思い出(17)

      大木健二の洋菜ものがたり  薬草か、野菜か? フェンネル  野菜というより薬草のイメージが強く、日本の消費は今一つ伸びません。イタリアのシチリアでは時期になると、野山の至る所に原生種が百花繚乱。 家庭では煮込みやサラダの隠し味としてよく使われています。  日本では食用として注目されたのは進駐軍が駐留した頃の第一次洋菜ブームからです。当時は房州(千葉県)の農家が葉をつけたまま出荷していましたが、独特の香りはあっても食味や形が本場のイタリア産にはほど遠く、今では国内産は夏場の長野

      • やっちゃば一代記 思い出(16)

        大木健二の洋菜ものがたり  ムスクラン 水耕栽培で活路が  いわば七草の西洋版です。 スカロール、レタス、トレビッツ、タンポポ、エンダイブ、ルッコラ、セルフィーユまたはマーシュを加えたサラダ用野菜の総称を指します。 イタリアでは北部のリグリア地方で1860年代に栽培されて以来のものですが 【ミステカンツァ】の愛称で大衆化しました。一方、フランスでは高級野菜として広まり、1981年2月ニースの野菜管理局が〔ムスクラン〕の呼称を正式に認証、市民権を与えたのです。国境ひとつで、野菜

        • やっちゃば一代記 思い出(15)

          大木健二の洋菜ものがたり  除草剤で夢も消える オゼイユ 俗にいう「スカンポ」で、本物の野菜と言えるようになったのは1980年代、全国に自生しているスカンポを折あるごとに齧って歩きましたが、日本ではヨーロッパ産に匹敵するような特有の酸味を持つものにお目にかかれません。国産は抽苔(ちゅうたい)した茎のところに酸味が付くだけですが、ヨーロッパ産は葉にも酸味が行き渡り、サラダにすると絶妙の味を出します。 終戦直後から特定の愛好家だけに珍重されているので、一般に普及するまでには至って

        やっちゃば一代記 思い出(18)

          やっちゃば一代記 思い出(14)

          大木健二の洋菜ものがたり  にせものの横行にプッツン バターレタス  バターレタスを市場に登場させるまで三年かかりました。 並外れてデリケートな野菜で、収穫のタイミングと輸送が大変難しかったからです。昭和五十七年、八年だったでしょうか、米国、イタリア、フランスの三国からそれぞれ種を取り寄せ、静岡県浜松で露地栽培に着手しました。 この時は出来が良すぎるほどでした。ところが、いざ収穫という段階ですべて薹(とう)が立っていました。つぎからハウス栽培に切り替えてやっとそれらしきものを

          やっちゃば一代記 思い出(14)

          やっちゃば一代記 思い出(13)

          大木健二の洋菜ものがたり   ロマン感じる香りと甘さ 食用ほうずき  【ほうずき】は世界に百種類余りを数えます。数少ない食用種の原産地は北米で、ここから南米のペルー、チリに伝わったものがニュージーランドに持ち込まれ、商業生産されるようになりました。  初輸入した昭和五十九年当時は食べられることを説明するのに大童。テレビに出たり講演会で紹介したりして、これ宣伝に努めたものの、珍しさと同時に、奇異な印象を持たれがちで、最近でも1トン前後の供給量にとどまっているらしいです。  一番

          やっちゃば一代記 思い出(13)

          やっちゃば一代記 思い出(12)

          大木健二の洋菜ものがたり  セロリアック 1873年渡来と書物に記されている古い野菜です。 多分オランダから入ってきたものでしょう。 私が京橋の大根河岸に勤め始めた(昭和八年)頃は千葉県から入荷し、面長で葉が付いていました。香りと姿形に抵抗があったためか、需要は細々としていましたが、戦後は洋菜ブームにのって千葉県の勝山、岩井、保田、長野県の原村、宮川村で栽培が再開され、あちこちに自称『セロリの神様』が輩出したのです。この野菜は普通のセロリのように茎が大きくなりません。ただ ス

          やっちゃば一代記 思い出(12)

          やっちゃば一代記 思い出(11)

          大木健二の洋菜ものがたり  太めが大うけ リーキ 今ではその痕跡すらありませんが、昭和十年代の東京では、江東区の砂町や板橋区内でリーキが栽培されていました。当時は利用者が一部のホテル、レストランに限られ、東京産でも十分間に合ったのです。その後、洋食の普及で消費が拡大し、生産も順調でしたが、夏場の供給だけがどうもうまくいきません。そこで浜松西農協(現JAトピア浜松)に夏用のリーキの栽培を依頼したのです。当時これが予想以上に評価され、なんと八千円(四キロ箱)の高値で取引されました

          やっちゃば一代記 思い出(11)

          やっちゃば一代記 思い出(10)

          大木健二の洋菜ものがたり  胸わくわく、自慢の逸品 トレビッツ パリのランジス市場でランチを相伴したとき、スモークサーモンの下敷きにされていたのが〔トレビッツ〕です。オリーブオイルと香辛料がよく効いていたこともあってこれは【大人の味。日本で売れる野菜】と確信、さっそく同業者三人と畑や冷蔵庫を見学したり、輸送方法を研究してみたりしました そして昭和五十六年十月三十一日、わずか七ケースとはいえ、日本初輸入に漕ぎつけたのです。しかし、同業者が輸入を見送ったなかでの単独輸入だったので

          やっちゃば一代記 思い出(10)

          やっちゃば一代記 思い出(9)

          大木健二の洋菜ものがたり  絶滅の危機 アーティチョーク  私が市場に勤め始めた昭和八年にはもう顔を出していました。 古くから国内生産されていた野菜です。異様な姿形にくわえて出回る時期が二ヵ月くらいに限られていたため、人目に触れる機会も少なかったのです。 また、バカの一つ覚えみたいに、茹でたあとドレッシングかマヨネーズでしか食べられてこなかったので、いまだに普及していません。  市場で初めて業務用に販売されたアーティチョークは、ある業者が帝国ホテルに納めた五十個でした。一人一

          やっちゃば一代記 思い出(9)

          やっちゃば一代記 思い出(8)

          大木健二の洋菜ものがたり  びっくり がっかりの輸入解禁 パプリカ  一ドル三百六十円の固定為替になる以前に訪れたパリのランジス市場で, 一目ぼれして以来ずっと、「いつか日本で作り、売ってみたい!。」と想いを募らせていたのが〔パプリカ〕です。  そこで昭和五十七年三月十九日、黄と緑の種子をオランダから初輸入。 種代は黄が百グラム二十七万九千七百八十円、緑が七万九千七百二十九円と目茶苦茶に高い値段でした。早速、茨城県は波崎の生産者に栽培してもらったところ、すぐに宮崎、高知へと普

          やっちゃば一代記 思い出(8)

          やっちゃば一代記 思い出(7)

          大木健二の洋菜ものがたり  誤解 誤用 嬉しい誤算 ベルギーエシャロット らっきょうの若いのと混同されやすいので、〔ベルギーエシャロット〕と名づけて販売しているのがフランス生まれのシャロットです。 一般の小売店や一杯飲み屋の付け合わせに出されるエシャレットとは全く違います。ただし、こちらは卸売市場のセリ人が勝手に命名したもので、ずっと古株なんですよ。 私がベルギーエシャロットを初めて輸入した時期は〔アンディーブ〕といっしょです。フランスはブルターニュ地方の片田舎で栽培されてい

          やっちゃば一代記 思い出(7)

          やっちゃば一代記 思い出(6)

          大木健二の洋菜ものがたり  貰いそびれた勲章 【アンディーブ】 ベルギーではブリュッセル、ルーベン、メルヘンが夢の三角地帯と呼ばれています。さしずめ日本なら最高級の松茸が採れる京都かな!? 野菜栽培に打ってつけの地方です。ここで栽培されるアンディーブは水洗いしなくても、叩くだけで砂を落とせます。 昭和四十九年十月、十ケース(四十五キロ)を初めて日本に持ち込みました。最初は売れなくて、売れなくて、店の片隅で品傷みしたアンディーブを選り分ける日々が続きました。それでもだんだんとい

          やっちゃば一代記 思い出(6)

          やっちゃば一代記 思い出(5)

          大木健二の洋菜ものがたり  危うく焼却処分 【ズッキー二】(ウリ科) 初輸入のあと、またたく間に普及したのが【ズッキーニ】です。 品種を登録しておけば一財産残せたのではと、今となってはちょっと悔いが残ります。 昭和五十二年九月、米国産野菜の第一号として他の十二種といっしょに十五ケース(百五十キロ)を輸入しました。けれど、当時はこの【ズッキーニ】がどういう野菜なのか、ホントのところ分かってなかったのです。 そこで、税関の問い合わせに、とりあえず「きゅうりです」と答えておいたので

          やっちゃば一代記 思い出(5)

          やっちゃば一代記 思い出(4)

          大木健二の洋菜ものがたり  マコモ=茭白(ジャオパイ) 輸入野菜の第1号はマコモ(真菰)でした。戦時中、中国で「マコモ三昧」の生活を強いられてきたので思い入れが深く、日中貿易がスタートした昭和三十年代後半にすぐに取り組んだのです。 上海の人民公社が送ってきたのは青みの部分が切り落とされたものばかりで「大木は悩みもの(売りにくい商品の意味)を買ってきた!」と周辺からは避難轟々。二度目も青いところを切り落とすよう輸入業者に口を酸っぱくして言い含めておいたのに、また同じものを送って

          やっちゃば一代記 思い出(4)

          やっちゃば一代記 思い出(3)

          大木健二の洋菜ものがたり  ビーツ 個人的に「根菜類を絶やすな運動」をしていました。 戦前はよく出回っていたのに、いまでは姿を絶やしてしまうやもしれない サルシフィー、パースニップ、ルタバガ、トッピーナンポ、ビーツの五種類を特に選び、自前の情報誌を送って、得意先の二百五十軒に消費拡大を訴えていました。この五種類は進駐軍上陸よりずっと前の明治時代から栽培されている洋菜ですが、戦後は需要がなくなり、生産は先細り状態ですね。私の運動もなかなか実を結びませんでしたが、それでもビーツだ

          やっちゃば一代記 思い出(3)