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小さいことはいい事だ

普段は近所のスーパーで買い物を済ませる。
近所と言っても車で10分近くかかり、ちなみに我が家の3キロ圏内にコンビニはない。

おいしい魚が食べたくなるとさらに隣町の、昔ながらの鮮魚店まで足を延ばす。
店構えからしてザ・魚屋のおもむきで、狭い空間をショーケースが占拠し、その奥で4人の職人さんが魚をさばいている。
手前には日よけのシェードが降ろされていて、はさまれたようにある通路は、ひと一人分の幅しかない。
営業日は水・金・土の週3日のみ。
昨日の土曜日午後2時に行ってみると、10人ほどの列になっている。週末はいつも、そんな感じだ。

最大で2人の客にしか対応できないうえ、1人が買う数も量もそれなりだ。順番が来て初めて選び始めるので、さらに時間がかかる。結果、並んでから10分程度待つことになる。真夏などは、結構しんどい。
しかも会計は、現金のみ。まったく今の時代に逆行している。

それでも客は、ひっきりなしにやってくる。
なぜか。言うまでもなく旨いからで、しかもスーパーより安い。
結果として客の財布のひもはゆるみ、スーパーであれば2,000円の刺身セットにひるむところ、ここでは皆3千円、4千円とまとめ買いしていく。
一番高い中トロで600円、べらぼう旨いアジのたたきが250円である。ひとり晩酌なら、この一品だけでも充分な量だろう。

僕は干物が目当てで寄ることが多いが、昨日はアジの開き250円を2枚、鮭の切り身が3切で500円。もちろん税込み(って言うか、込みか無視なのかもよくわからない)で、ジャスト1,000円だった。

何をどうやったらこれだけの違いになるか知らないが、ともかく肉厚で身がぎっしりのアジは、絶品である。
これを基準に考えると、スーパーでアジと称し売られている魚は全て偽物ではないかとさえ思えてくる。
清水だからもともとおいしい魚は手に入りやすいが、それには相応の金額が要求される。コストパフォーマンスで考えて、この小さく古めかしい店にかなう店鋪はないだろう。

包装がまた良い。今どき新聞紙である。
こちらで頼まずともヘナヘナのレジ袋に入れてくれるが、これに1円や5円の別料金を取ろうなどとケチなことはしない。
レジなんてものもない。小銭はざるに入れ、各包装ごとに値段をマジックで書き入れ、暗算で「○○円です」とくる。
10種類ほど購入した際、本当にあっているのかスマホの計算機で確かめたが、間違いなかった。機械に一切頼らないアナログ人間の面目躍如といったところである。

これはもう、平成からすらもタイムスリップした、昭和の店である。
おじいちゃん2人と、40代から50代らしき男性2人の計4名。親子なのか、師匠と弟子の関係なのか。職人さんのたたずまいもまた、昭和である。
おじいちゃんの背中は曲がっている。ひたすら前かがみに魚と取り組んできたであろう男の代償、いや、勲章かもしれない。かっこいいぞ。

ひょっとして、国家に反逆しているのではないかとも受け取れる。
消費税もレジ袋も無視し、電子決済も一切受け付けない。
営業日は週に3日。
全ては国の政策より自分たちを優先しているかのようで、味と料金は最高なのだから文句のつけようがない。この店をして、人は基本にかえれと思う。

「道の駅」を目指すものとしては、さまざまな面で勉強になる。
利便性を追求するあまり、本質を見失った現代。

『スモール イズ ビューティフル(Small is Beautiful)』の著者F・アーンスト・シューマッハーは、経済至上主義や何の反省もなく巨大化する技術を批判し、もっと人間の身の丈に合った経済活動をすべきと主張した。

「足るを知る」
人間、現在の境遇を自分に見合ったものと考えれば、日々心安らかに暮らすことができるはずなのだ。

イラスト hanami🛸|ω・)و

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