Makoto Shirasu

「毎日をていねいに暮らす」を大切に。 興味の中心は「生命・自然・調和」。哲学、ア…

Makoto Shirasu

「毎日をていねいに暮らす」を大切に。 興味の中心は「生命・自然・調和」。哲学、アート、デザイン、サイエンス、音楽、ヨガなど幅広く。 総合商社 → AIエンジニア → 事業統括・PM・事業開発・サービスデザイン@startup → 自由に。

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最近の記事

感覚運動シミュレーション(動作イメージ)が意味を担っている、ということ。

楽器やヨガの練習を重ねると、身体を動かしていない状態で動作をイメージ(感覚運動シミュレーション)することができるようになってきます。ヨガのほうが身体の動きが大らかでゆったりとしているのでイメージしやすいかもしれません。 人間の身体は一見するとほぼ左右対称ですが、実際には内臓の配置や筋肉のつき方などは左右非対称。ヨガで身体を動かすと左右差が表れる、つまり、身体の左右で動かしやすさに差があります。たとえば、片方の足は蹴り出しやすいけれど、もう一方の足は蹴り出しにくいなどです。

    • 時間の概念と身体の非対称性

      いつから「時間」の概念を表現できる、表現するようになったのだろうと思い返してみても、なかなか思い出せません。 時計の針の回転を「時計の針が進んでいるね」と親が口にしているのを耳にしたり。あるいは1時、2時、3時…と数字で表現された時刻が増えてゆく様子から「時間は進んでいる」と思うようになったのかもしれない。 ここで「進む」という感覚は何に根差しているのだろうと考えると、「移動」つまり「身体が動いて位置が変わる」という身体的経験なのだと思います。 前や後ろに進むというのは

      • 行為から感情へ(action-to-affect)〜水と人間の身体の自由〜

        「腕の曲げ伸ばしが肯定的な感情を抱きやすいのか、それとも否定的な感情を抱きやすいのかに影響を与える」 にわかには信じ難いのですが、後で言葉を弾くように、このことを支持する実証研究が過去に行われていることを知りました。 行為から感情へ(action-to-affect) 日々の生活において、喜怒哀楽だけでは区分しきれないグラデーション的な感情が湧いてきますが、それはつまり「何に触れるのか・出会うのか」だけではなく、「どのような状態で触れるのか・出会うのか」に左右されている

        • 嬉しいから笑うのか、それとも笑うから嬉しいのか〜表情フィードバック仮説〜

          「口角を上げると気持ちが明るくなるよ」 このような言葉を聞いたこと、一度はあるのではないでしょうか。 「嬉しいから笑うのか、それとも笑うから嬉しいのか」という問いは、その問い自体が「感情と身体の関係は双方向的である」可能性を含むものです。 「表情フィードバック仮説」の実証実験において「笑顔の表情をした被験者のほうがイラストを面白いと感じた(肯定的な情動)」との結果が示されており、身体の状態(表情)が知覚に影響を与えることが、この問いを考える上でのヒントになりそうです。

        感覚運動シミュレーション(動作イメージ)が意味を担っている、ということ。

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        • 生命
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        記事

          子どもと大人で世界の見え方が異なる一つの仮説〜人は身体で空間を尺度化しているということ(知覚的定規仮説)〜

          今日は身体と知覚の関係性における「知覚的定規仮説」と「知覚の再体制化」に触れました。 知覚的定規仮説とは「人が身体を"モノサシ"として空間を尺度化している」とする仮説です。 たとえば、空間の近さは「手を伸ばす」や「つかむ」という行為の限界によって尺度化されている。離れた物に手を伸ばしてつかむ状況をイメージすると、自分の腕の長さを基準として「簡単に手が届きそう」あるいは「少し近づかないと届かないかもしれない」など、空間的距離を知覚・評価しているというものです。 後で言葉を

          子どもと大人で世界の見え方が異なる一つの仮説〜人は身体で空間を尺度化しているということ(知覚的定規仮説)〜

          人との関係性の質が知覚に影響を与える、ということ。

          今日は「近くにいる人との関係性の質が知覚に影響を与える」ということを学びました。後ほど社会心理学的な効果を確認した実験に関する言葉を引きますが、自分事に引き寄せて考えてみたいと思います。 私の場合は趣味で管楽器(サクソフォン)を演奏しますので、誰かと一緒に演奏している状況を思い返してみます。 所属している楽団で演奏する時と、一回限りで初対面の方達と演奏する時とでは、たしかに演奏の感覚が違うように思います。 所属している楽団で演奏する場合、少なからず演奏以外の時間をメンバ

          人との関係性の質が知覚に影響を与える、ということ。

          身体化された知覚〜ボルダリングにおける傾斜の知覚を通して〜

          昨年から友人にお声がけ頂き「ボルダリング」にチャレンジしています。ボルダリングジムに通い、大小様々な形のブロックが取り付いた傾斜のついた壁に手足をかけて登ってゆくものです。 人それぞれ、手足の長さも違えば、関節の柔軟性、可動域も違います。他の方がチャレンジしている様子を見ているだけでも「そのような登り方ができるんだ…」と、創造的な身体運動に新鮮な気持ちになります。見えていないものが見えているのだと思います。 「こうすれば先に進めるのでは…?」と直感しているものと想像します

          身体化された知覚〜ボルダリングにおける傾斜の知覚を通して〜

          身体感覚と共感〜落ちる感覚と恐怖のつながりを通じて〜

          高い場所に登るのが怖い。ジェットコースターやフリーフォールなどの乗り物に乗ることが怖い。高い場所に感じる恐怖の源泉は何なのでしょうか? その要因の一つは、高いところから「落ちる」という身体感覚。普段は地に足がついて身体が支えられていることによる安心感があるわけですが、落下している時間は支えが外れて自分の身体をコントロールできなくなります。 その「フワッ…」とした身体感覚が記憶され、高い場所に登ることが引き金となって内側から落ちている感覚が蘇ってくる。そのような蘇る身体感覚

          身体感覚と共感〜落ちる感覚と恐怖のつながりを通じて〜

          身体化するということ〜身体化された認知の理論における「思考」の位置付け〜

          ヨガに取り組んだり、楽器を演奏する中で、色々な考えが浮かんでは消え、浮かんでは星と星の間に線が見つかり星座となるように、つながってゆく。 「身体を動かすこと」を通じて何かと何かがつながったり、ぼんやりとしていたことが輪郭を持ち始めたことがある、という経験があるのは私だけではないと思います。 そこで、しばらくの間このような個人的な感覚を深掘りしてみたいと思い、一つの手掛かりとして「身体化された認知」の理論を参照しながら、身体的体験の意味を探ります。 身体化された認知の理論

          身体化するということ〜身体化された認知の理論における「思考」の位置付け〜

          中立な観察者〜感情と理性の相互作用、ダイナミクス〜

          「なんであんなことを言ってしまったんだろうか」 「なんであんなことを思ってしまったんだろうか」 それは他者に対してかもしれませんし、あるいは自分に対してかもしれません。「相手のことを思って」という枕詞がつくとき、良くも悪くもその言葉は自分本位、利己的な言葉になっているかもしれない。 ですが、できることならば「相手のことを思って」のことが実際に相手のためになってくれたら…という気持ちは(今すぐでなくともよいので)どこかで実ってほしい。 『道徳感情論』『国富論』で知られる有

          中立な観察者〜感情と理性の相互作用、ダイナミクス〜

          万物の流れとダイナミクス〜ヨガと音楽の重なり合いを通じて〜

          「ヨガと音楽は重なっている。つなぐものは"ダイナミクス"(Dynamics)」 今日もいつものようにヨガに取り組んでいると、それはそれは青天の霹靂のように、突如としてこの言葉が降りてきて自分の心の内側が晴れ渡ってゆくような感覚を覚えました。今日のこの感動を未来の自分に託すような気持ちで徒然なるままに綴ってみようと思います。 ヨガは身体を動かして様々なポーズを取ります。両足で身体を支えるように身体の対称性を保つ形もあれば、片足立ちでバランスをとるように非対称な形を取るポーズ

          万物の流れとダイナミクス〜ヨガと音楽の重なり合いを通じて〜

          環境、行為、そして意味〜行為の意味は環境から引き出されるということ〜

          「私たちは環境から様々な"支え"を受け取り、そこに意味を見出している」 アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが提唱した「アフォーダンス(affordance)」という概念。これは「与える、提供する」などを意味するアフォードから派生した造語ですが、環境が私たちに提供している「行為の資源」です。 私たちは環境に内在している性質を見出し、その性質を適切に利用しながら様々な行動・行為を実現している。逆に言えば、行動(および、その意味)を観察することで環境が持つ有用な(活

          環境、行為、そして意味〜行為の意味は環境から引き出されるということ〜

          こころを"環境と行為の関わりのプロセス"と捉える〜生きものの行為を考えるために、生きもの"だけ"から発想しないということ〜

          「こころは環境と行為の関わりのプロセスである」 アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが提唱した「アフォーダンス」という概念に関する書籍『アフォーダンス入門 知性はどこに生まれるか』で記されている言葉です。 Wikipediaを参照すると、アフォーダンスは「環境が動物(有機体)に対して与える意味や価値」と述べられています。関わりとは「時間的な変化を伴う相互作用」であり、その中で個々の動物にとっての固有の価値や意味が引き出されていく。 私が時折考える問いの一つに「

          こころを"環境と行為の関わりのプロセス"と捉える〜生きものの行為を考えるために、生きもの"だけ"から発想しないということ〜

          "紙の向こう側"にいる人の存在と縁起〜ハンドシュレッダーによる裁断を通して〜

          「サクッ…サクッ…サクッ…」 毎日のようにポストに投函されるチラシや広告。それらの大半は残念ながら手に取っても縁がありません。 「これは裁断してしまっていいのかな…」 ご縁のなかった紙類の一つひとつをハンドシュレッダーで裁断していると、作成主に申し訳ない気持ちが湧きあがる紙もあれば、そうでない紙もあります。 今の時代、電動シュレッダーにかければ紙を大量に短時間で簡単に裁断できますが、あえてハンドシュレッダーを使うと、時間はかかるものの裁断時の振動が身体感覚として蓄積さ

          "紙の向こう側"にいる人の存在と縁起〜ハンドシュレッダーによる裁断を通して〜

          レジリエンスの源泉〜ユーモアと意味付け〜

          復元力などを意味する「レジリエンス」という概念の定義は様々ありますが、書籍『レジリエンスとは何か』の中でレジリエンスの構成要素が紹介されていました。洞察、独立性、関係性、イニシアティブ、創造性、ユーモア、モラルの7つです。 ここ最近、季節の変わり目で気温の変化も激しく体調を崩したり、長年使っていたパソコンが突如不調になりバッテリー交換などで修理に出さざるを得なくなったり…といったことが同時期に重なりました。 ふと「神様、試練を与えすぎです…!」と無意識に口をついて一言。「

          レジリエンスの源泉〜ユーモアと意味付け〜

          こころのレジリエンスとは何だろう?〜心が"折れる"という表現から考える〜

          書籍『レジリエンスとは何か』で「人のこころのレジリエンスとは何か」という問いかけがなされています。 「悩みが尽きない」「心が折れてしまいそう」のような言葉が浮かんでくる、あるいは口をついて出てくることもあるかもしれません。 ふと「心が折れる」という表現は、心が「折れる」ような性質を持っているという前提が置かれていることに気づきました。もし心が「折れる」ものであるならば、心は「固い」「曲がらない」ものであるはず。ですが、心は硬いのでしょうか? 新しい環境に飛び込んだ時、人

          こころのレジリエンスとは何だろう?〜心が"折れる"という表現から考える〜