【自伝小説】最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島|第9話 逆襲編(1)
【死ぬこと以外はかすり傷】
傍から見れば、順風満帆に思える空手ライフであったが、入門から僅か1年で引退に追い込まれるなど、先行き不安しか感じていなかったフリムン。
28歳になったばかりの若者に突き付けられた、余りにも酷なこの現実。
既にモチベーションを保つので精一杯だったが、安息の地へ逃亡するという選択肢はフリムンにはなかった。
「ここで逃げたら死ぬまで後悔する」
これまでも、そしてその先も何度この言葉に背中を押されたことか。
フリムンの親父は挑戦する事だけでなく、逃げることさえも許されずこの世を去った。
その無念さ足るや、これまでフリムンが経験してきた「挫折」や「屈辱」など取るに足らないものであったはずだ。
いつかあの世で再会した時、堂々と胸を張っていられる自分で居たい。
そうでなきゃ親父に申し訳が立たない。
フリムンは、これから何がおきても「死ぬこと以外はかすり傷」だと思うことにした。
【真夜中のキッス♡】
生きてさえいれば、奇跡を起こす可能性は誰にだってある。
こんな自分にだって、絶対に起こせるはずだ。
そういう思いで修練を積み重ねていたフリムン。
まだ極真入門前、こんな事があった。
当時、建築関係の下請け業者でバイトしていたフリムン。
下請けなので、工期が近付くと残業で暗くなるまで帰れない事もしばしば。
時に深夜となり、午前1時頃まで現場で働かされる事もあった。
働き方改革などガン無視の時代である。
家族を養うためには仕方なかったが、それでも深夜1時過ぎに帰宅したフリムンは、その日の練習メニューを消化しようと物置きで筋トレに励んだ。
筋肉痛で肉体が悲鳴を上げても一切耳を貸さず、現場では誰よりも重たいものを率先して運んだ。
何故なら、極真の看板を背負っていたからである。
まだ入門前だったが、「絶対に極真の道場を立ち上げる」と公言して憚(はばか)らなかったため、この島では彼が極真の先駆者だと周りは認識していた。
よって弱みを見せるわけにはいかなかった。
空手以外でも絶対に負けちゃいけないと、身を粉にしながら極真の強さをアピールする努力を怠らなかったフリムン。
そんな事を繰り返しているうちに次第にある確信を持つようになった。
このまま行けば、いつか必ず八重山空手界の歴史に名を連ねるだろうと。
(その確信は、後に現実となる)
ただ、お陰で家族との時間が作れず、真夜中にスヤスヤと寝息を立てる愛娘の寝顔にキスすることだけが唯一の楽しみとなっていった。
そんな日々が続くと、今度は娘の方が父親の顔を忘れ、たまに起きているときに顔を合わせても、泣きじゃくってハグさえもさせてくれないという負の連鎖が生じた。
これには、流石のフリムンも参った。
この事件をキッカケに、残業の多い仕事から離れる決意をしたフリムン。
確かに生活費は多いに越したことはなかったが、収入よりも家族との時間を大切にしたかった。
事件以降、フリムンは道場を存続させるため、そして家族との時間を作るため、17時までに終わる仕事を転々とし、現在に至っている。
ただ、そこまでして空手中心の生活を送っていても、中々好転しない空手ライフに、流石に腹が立ってきたフリムンは、意を決し戦場に舞い戻る決意を固めた。
果たして、遂にその日はやってきた。
涙が枯れ果てるまで泣き明かし、泣き飽きたフリムンの逆襲の時が…。
【現役復帰】
悪夢の骨折から4年、
何とか復帰戦にまで漕ぎつけたフリムン。
久々に選手として表舞台に姿を現したが、不安な気持ちを拭えぬまま会場の熱気に圧倒されていた。
まだ完全に試合勘は戻ってはおらず、ブランクによる体力の低下も否めず、ベスト8を掛けた2回戦で、上段回し蹴りをテンプルに食らいあえなく一本負け。
早々に戦場から引きずり降ろされた。
「俺…もう…終わりかな?」
そんな思いも過(よぎ)りはしたが、またもや背中を押したのは「ここで諦めたら死ぬまで後悔する」という一貫した思いであった。
島に戻り、翌日から更に稽古を積み重ね1年。
迎えた復帰第二戦の「第7回沖縄県大会」にて、人生初のベスト8入り(7位入賞)を果たす。
共に出場した後輩も(6位入賞)と(敢闘賞)という大活躍。初めて3名同時入賞というオマケまで付いた。
【パチンコ玉】
初のベスト8入りを果たしたものの、当然この程度で満足するはずもなく、すぐさま次の計画に着手。
それは、筋トレを始めた頃から夢見ていた「ボディビルコンテスト」への出場であった。
極真入門前、筋トレの師匠であるO会長の勇士を目の当たりにし、いつか自分もと密かに計画を練っていたフリムン。
根っからの欲しがり屋さんの本領発揮である♡
これまで増量しかやってこなかった彼に取って、減量は生まれて初めての経験。
県大会デビューから6年の歳月を経て、筋肉により18㎏の増量に成功してはいたが、ボディビルはサイズを競うものではない。
無駄な肉(脂肪)を削ぎ落し、如何に筋肉のカットを演出するか。その完成度を競う競技である。
フリムンは空手の稽古と並行し、僅か半年で88㎏あった肉体から無駄肉のみを削ぎ落し、20㎏のシェイプアップに成功。68㎏まで落として見せた。
生まれて初めての減量にしては、中々どうして上出来な仕上がりに思えた(ここまでは…)
ここまでは順調な滑り出しに思えたが、過度な減量により肉体を酷使したせいで、長期に渡り「便秘」に悩まされていたフリムン。
長い時は1週間も出なかった。
これは、予想外の出来事である。
それもそのはず、正しい減量法を知らず、とにかく食べない事で絞りに行っていたフリムン。
1日の食事量はコンビニのおにぎり1個とサラダのみ。
後は適当なサプリとスポーツドリンクだけという滅茶苦茶な方法であった。
更に、まだ30代半ばと若かった事もあり、ぶっ倒れるまで稽古をした日も美崎町(飲み屋街)に繰り出し、帰りはお約束の午前様。
それでも僅か2~3時間程度の睡眠で早朝ランニングに出掛け、時にはサザンゲートブリッジで坂道ダッシュを5本~10本やりきる事もあった。
その後出勤し、退勤後直ぐにGYMへ赴きウエイトトレーニング。それから道場にて指導や自主連に打ち込み、また飲みに行くという悪循環を繰り返していた。
そんな無茶なルーティーンを続けたが故の肉体的異変。
自業自得とは正にこの事である。
長期間ウンティが出ず、徐々にトイレで踏ん張る時間が増えていったが、遂に正露丸ほどの便を出すことに成功(ヤギかっ)
ただ余りにも便が硬すぎて、カラーン、コローンという音が鳴り響いた時は、思わず「パチンコ玉っ?」と叫んでしまった程である。
それほどの硬度であった。
そんなパチンコフィーバーにより、出血大サービスとなった便器に目をやったフリムンは、ビビって直ぐさま病院へ直行。
診断した医師から「直ぐに手術しましょう」と告げられた。
次回予告
逆襲は、ちゃんと始まる…?
乞うご期待‼
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この記事を書いた人
田福雄市(空手家)
1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。
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