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【自伝小説】最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島|第8話 暗雲編(4)

【初来島】

石垣島に、師範が初めて足を踏み入れる日がやってきた。

同好会初の審査会のためである。

何だかんだで会員数も爆上がりし、同好会ながら他の空手道場よりも活気に溢れていた石垣同好会。

しかし、流石にフリムンと同じく那覇で審査を受けさせる訳にはいかないので、師範の配慮により石垣島で受けられる事となった。

ただ、大変なのはフリムンの方だ。

那覇に行けば、諸先輩方が常に近くに居るが、石垣島では自分が先頭に立たなければならない。これほど緊張する事が他にあろうか。

フリムンは、震えながら師範の到着を待った。

緊張の余り直立不動のまま固まるフリムン

とにかく、その後の記憶が乏しくなるほどフリムンはテンパっていた。あの日の写真を見返しても、何も思い出せないほど深刻な精神状態で。

【初めての審査会】

1995年6月。保育園こどもの家にて行われた初の審査会では、10名程の会員が日頃の鍛錬の成果を披露した。

白帯だけの審査会は、これが最初で最後であった
(柔軟)(移動)
(ミット蹴り)(約束組手)
(ガチ組手)

こうして滞りなく審査を終え、全員合格を果たした。

師範より、「よく稽古しているね」と労いの言葉を頂き、ホッと胸を撫で下ろしたフリムンだったが、そのプレッシャー足るや想像を遥かに超えており、不安な気持ちはまだ拭いきれていなかった。

少しだけ、ミットを蹴れるようになった夏の出来事である。

【後輩たちの躍進】

1995年10月。審査会に引き続き、今度は八重山初の大会を開催する事となったフリムン。

沖縄支部の新人戦を参考に、当時出来たばかりの新学校、「八島小学校」の体育館で熱戦の火蓋は切って落とされた。

まだ、石垣市総合体育館が完成する前年の事である。

ちなみに当時の空手大会では、一般客が観戦に訪れることはほぼ皆無であり、会場は関係者のみ。

しかし、極真のネームバリューと初めて開催される直接打撃制空手に興味を持った若者が多数訪れ、新人戦なのに100名近い動員数を記録した。

八重山空手界最高動員数を記録した第1回大会
記念すべき決勝戦はカツカレー兄弟のKY対決となった
(集合写真)

更に八重山大会の翌月、今度は琉球大学にて開催された沖縄支部主催の「琉大祭新人戦」で、八重山代表のKとGが大活躍。

軽量級ではGが優勝し、重量級ではKが準優勝する快挙を成し遂げた。   

大活躍したGとKの飛び蹴り審査と、地元紙の記事

こうして着実に極真の名を島内に広めていったが、次なる目標は、いつでも使用可能な常設道場の開設であった。

【初めての常設道場】

1996年夏。更に道場生が増えてきたのを機に、市内登野城に常設道場を開設。

現在の半分程度のプレハブ道場ではあったが、着実に会員数を増やし、最高で40名にまで達した。

八重山一勢いのある空手道場が誕生する直前の事である。

八重山一狭い道場ではあったが、活気はハンパなかった

【満員御礼】

記念すべき第1回八重山大会から1年。

第2回からはオープントーナメントとなり、極真以外の流派や格闘技団体も参戦可能となった。その報せを受けた伝統空手やキックの選手が多数襲来。

戦国時代の始まりである。

ちなみにこの年に石垣市総合体育館が完成。
主戦場を「市武道場」に移し、石垣道場は更なる勢いを増していった。

満員御礼の大盛況。椅子が足りず立ち見客まで出た
熱戦を制しK選手が見事二連覇を達成

この頃から、石垣島で最も勢いのある武道団体として認知され始めた石垣同好会。

道場生の数も右肩上がりとなり、旧道場に入りきらなくなっていった。

フリムンは、少しだけ天狗になり掛けていた。

【三度目の正直】

常設道場開設から2年後の1998年。

三度目の正直で漸く昇段を果たしたフリムン。

僅か9か月で茶帯を許されてから、既に3年の月日が経っていた。

そこまで時間が掛ったのは、フリムンに覚悟が足りなかったからである。

離島であることを理由に、基本を蔑ろにしていたフリムン。

現役復帰ばかりが頭を過り、稽古内容がミットやスパーに偏っていたが故の弊害であった。

保留となった昇段審査は、2回とも型を完璧に覚えられなかった事が大きな理由であった。

仕事が変わり、那覇へ稽古に行くのが困難になっていた頃なので、中々型を覚える事ができずにいた。

しかし、これから極真の看板を背負う立場の弟子に、師範は妥協を許さなかった。

幾度となく師範よりダメ出しをされたフリムンは、このままではダメだと腹を括り、今度こそ絶対に取りに行くぞと型の稽古に没頭。

寝ても覚めても型を打ち続けた。

そして迎えた三回目の昇段審査。努力の甲斐あって、遂にフリムンは黒帯を取得。

入門から約4年。極真と出会った高校生の頃から数え、既に16年の月日が流れていた。

それから更に20年の時を経て、四段にまで上り詰めたフリムン。あの偽物を入れると、実に六本もの黒帯を所有する事となった。 

こうして晴れて極真の有段者となったフリムンは、同好会から道場へと昇格した石垣道場の責任者に再任。

改めてこの島に極真を根付かせることを、人生最大の指針とした。

フリムン31歳の時である。

【ビューティフル·ネーム】

同じく1998年の夏。

有段者となったばかりのフリムン家に、三人目の女の子が降臨した。

ただ、長女や次女と違い、流石に三人目ともなると命名もほぼテキトー(笑)

家族でミカンを食べながら案を出し合っていた時、何気にミカンを見つめながら長女が一言。

「ミカでいいちゃう?」
「それな♡」
「よし決定♡」

僅か3秒弱という短いスパンで、過去最高の「ビューティフル・ネーム」が決定した(笑)

ちなみに生まれたばかりの頃は、将来こんな美人になるとは誰一人思ってもいなかった。

当の本人も、もちろん両親も(笑)

三女ビフォーアフター♡

これで遂に5人家族となったフリムンファミリー。

これから繰り広げられるオトンと娘たちの爆笑ワールドに、唯一フリムンの血を引かないオカンは振り回される事となる。

そんなドタバタ喜劇を乞うご期待♡

【改心】

もうこの頃から、夏の風物詩として浸透していた極真八重山大会。満を持して、フリムンは更に大きく打って出た。

この第5回大会から入場料を徴収し、その売り上げを「社会福祉協議会」に寄付するという大船に乗る事にしたのだ。

大会には市長や福祉協議会会長なども招待され、会場もメインアリーナに移動。これまでの新人戦と違い、表向きは地区大会レベルにまで格上げされた。

しかし、調子に乗り掛けていたフリムンは、大きなミスを犯してしまう。

蓋を開ければ観客動員数も想像を大きく下回り、メインアリーナはガラガラ。運営も人手不足で上手く機能せず、出場選手も棄権が続出するという体たらく。

とうとう師範の逆鱗に触れてしまった。

それもそのはず、この程度の準備で成功するほどイベント開催は甘くなく、身の丈を越えた考えの甘さが招いた大失態であったからだ。

フリムンは死ぬほど後悔したが、もう後の祭りであった。

過去最悪の結果を招いた第5回大会

もう二度とこのような失態は繰り返すまいと、翌年の大会では準備に準備を重ね、会場も身の丈に合った武道場へ回帰。

観客動員数も再び回復。運営も順調に機能した。

こうして初心に戻って実行委員長の任を務めあげた結果、フリムンは師範よりこう声を掛けられた。

「フリムン君、もし総裁がこの大会を見たら、きっと大喜びすると思うよ」と。

その言葉を聞いたフリムンは、人目も憚らず涙を落した。

入門して初めて師範に褒められたことも嬉しかったが、何より総裁が喜んでくださると仰っていただけた事に胸を打たれた。

もし本当に総裁がご存命で、この大会の本部席に座っていたなら。そう想像するだけで、フリムンは鳥肌を立たせながら身震いした。

「努力は謙虚な心無くして実を結ぶことはない」

数えきれないほどの失敗を繰り返しながら得た教訓は、何をするにも感謝の心を忘れずに、謙虚に謙虚に行動するということであった。

それを知れただけでも、これまでの失敗の数々は決して無駄ではなかった。

そう思ったフリムンは、肉体的な鍛錬だけでなく、心の修業にも没頭していった。

それこそが、真の意味での空手修行であると。

社会貢献も立派な空手修行の一環である

こうして数多くの危機を乗り越えてきたフリムン。後は現役復帰を果たし、諦めかけた夢を再び取り戻すことのみ。

そんなフリムンの逆襲劇は、徐々に波紋の如く広がっていくのだった。

次回予告

次回、遂にフリムンが動き出す!

夢は決して逃げていかない!
逃げるのはいつも自分だ!

『逆襲編』乞うご期待‼


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この記事を書いた人

田福雄市(空手家)
1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。


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