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なりたい自分とありたい自分

私は躁鬱歴がかなり長いです。年齢的に言っても社会復帰の希望を絶たれています。
なので「もし躁鬱が治ったら〇〇がしたい」という考え方をすることはあまりありません。
絶望的なものに希望を向けたとしても何もいいことは思いつきません。

しかし同じ躁鬱の方の中には色んな夢や希望をお持ちの方がいらっしゃると思います。
バリバリ仕事がしたい、お金持ちになって余生を満喫したい、など色んな夢があると思います。

そんなふうに考えたとしても夢や希望を叶えるのはそう容易いことではないですし、絶望的になって諦めてしまう方もいらっしゃると思います。

でも実際なりたいと思った自分になれたとして、それは果たして幸せでしょうか?
 

もしかしたら再就職した先でいじめにあい、病気が再発するかもしれません。
そしてお金持ちになってしまったら、その財産を盗まれないように細心の注意を常に払わないといけません。

そう考えると、そんなことに気を取られるのは時間の無駄に思えてきました。
実際こちらの記事を拝読してその考えが改めて大きくなってきました。

余白さんが仰られていることがとてもよく分かります。

私もたとえ病気が寛解しないとしても、日常で大事にしたいことはたくさんあります。
例えば、朝活に励むこと、朝の日差しを浴びること、父の仏壇に手をあわせること、家族と会話すること、スーパーに買い物に行くこと、その途中で道端の花々を眺めること、などです。

これらのことは、もしさらに体調を崩してしまうとできないことばかりです。そんな些細なことを積み重ねていける毎日こそが本当の幸せなのではないでしょうか?

病気ありきの自分ではなく、自分は幸せなのだけれどそこにたまたま病気という存在がある、というイメージです。


そう考えるうちに、私はまた他の方にいただいた言葉を思い出しました。

なりたい自分を考えると難しいから、ありたい自分を考えてみるといいよ。


こう言われた時は何も思いつきませんでした。 
しかしよく考えると今普通に積み重ねている日常をキープしていくことと、この言葉がリンクしたのです。


私の「ありたい自分」とは「いつも笑っていられる自分」でした。


朝活も、日差しを浴びることも、父と目を合わせることも、家族と話すことも、スーパーに行くことも、花を愛でることも、全てふっと笑顔になれます。

そうするとこんな毎日を続け、笑顔でいられることが私にとっての幸せなのではないか?と思うのです。

これからもできるだけ笑顔で、毎日大きなことがなくても平穏で家族と暮らせることを大事にしたいと思いました。

余白さんの仰りたかったことと少しニュアンスが違うかもしれませんが、私にとってはどちらの言葉も大切な気づきとなりました。
お二人ともありがとうございます。


今日はここまでです。
お読みいただきありがとうございました。

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