視覚思考者(ビジュアルシンカー)という言葉

大型連休の後半、今日はとても湿度が低くて爽やか、過ごしやすい一日でした。

二階の窓際に椅子を置いて、しばらく外を眺めていても家の近くの国道は車も歩く人もまばら。みんなどこかにでかけているのでしょうか。

少しの会話の後に飛び立っていくカラスたち。遠くに見える蔦をまとった私より年上の雑居ビル。風に揺れるクンシランを目の端に感じながら、穏やかな時間の中で読書をしてみました。

電子書籍ではなく紙の文庫本を読みたい気分だったので、刊行されて今年で100年の宮沢賢治「春と修羅」を開いてみました。

逢ってみたい昔の人が何人かいて、そのひとりが宮沢賢治。

少し前にYouTubeチャンネル「ゆる言語学ラジオ」で、視覚思考者・言語思考者という考えについての動画があがっていました。

自分もどちらかと言えば映像、あるいは映像みたいなもの(表現が難しいのですが色が付いた粒みたいなものや霧みたいなもの)が浮かんでくるので、そういうのを言葉にして書いている感じです。あるいは言葉を見ると何かしらの映像らしきものが頭にゆらゆらと、あるいはぼんやりと漂ってくる感じなので、逆に言語思考者の方の考えがわかって面白かったです。

映像をセルフ文字起こししてから体外に出すので、相手に届けるまでに伝えたい事がやや減衰している気がします。疲れている時に全く言葉が浮かばなくなるのは、その文字起こしに使う余力がないからなのかもしれないですね。

宮沢賢治はどんな風に世界が見えていたんだろう、自分の中に広がる世界をすべてアウトプットできたのだろうか、そんな事を思いました。

賢治になって今日の私のようにありふれた風景を見たら違う感じ方をするのか、文字や言葉にする時にどんな事が頭に浮かぶのか、色や音なども一緒に出てくるのか、あるいは頭の中に様々な物が溢れすぎて苦しいのか、そんな事を体験してみたいと思いました。




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