政治的立場を越えて、中庸を探る
選挙が終わった。結果は予想していた通りだった。
何より、すべてを見渡して中庸を探ろうとする行為に、とても疲れました。誰かが示してくれた「これが正解だよ!」に賛同する方がずっと楽。自分の頭で考え、自分の言葉で表現するのは膨大なエネルギーが要るし、主張すれば必ず反対側が生まれて、批判にも晒される。
とっても疲れましたが、「これが本当にベストな選択かな?」と常に疑問を持ち続けたい。「これが正解!」と凝り固まって対話の糸口を閉ざしてしまうのが一番やりたくないことなんだなと、改めて思った選挙期間でした。
経済思想家・倉本圭造さんのnoteの中でとても共感する箇所があったのでシェアします。
この、立場は違えど「社会の未来像」は一致する部分があるんじゃないかというのが、私がどんな人と対峙するときにも心にある希望です。(岡田憲治氏の「政治学者、PTA会長になる」早速購入しちゃいました)
これまで、何度もSNSやライブの中で紹介させていただいている、ビデオグラファー 森谷博さんの「アマゾン先住民のコミュニティにおける意思決定システムについて」も、決して理想論ではないと思っています。
ただ、日々の中で、主張の異なる人とぶつかる場面は少なからずあって、そこで「なるほど、あなたはそう思うんですね〜」で終了して良い時もあると私は思っているんです。
何かを決定しなきゃいけない時はとことん対話して中庸を探る。でも、「私は私、あなたはあなた」で、互いの大切にしている領域をむやみに否定せず「そうなんですね」と知るだけで良い場面もたくさんある。何でもかんでも自分と異なる主張を「それは違う!」と"正そう"としなくてもいいんじゃないかなと。相手を正そうと舵を切った時点で対等ではなくなるし、それは対話じゃなくて"説得"ですから。
それが明らかにデータに基づかないデマや、「騙されていますよ!詐欺ですよ!」って時には口を挟むこともあるかもしれない。だけど実際「誰にもわからない」「やってみなきゃわからない」こともたくさんあると思う。
言い負かすこと(いわゆる論破?)と対話は全く別物なのですが、そこが混同してしまうと、そりゃ主張ぶつかるの怖くなるよなと。
小学生の頃ディベートの授業があって、国語の教科書に載っていた「きつねのおきゃくさま」の中の「いや まだいるぞ。きつねが いるぞ」というセリフを「キツネが言ったか?オオカミが言ったか?」で議論したのですが、クラス約30人の中で1対29になって、その1が私だったんです。
私からすれば「え!?どう考えてもきつねでしょ?きつねが、ひよこたちを守るために先頭切って飛び出す覚悟を決めたセリフでしょ?」でしたが、何せ1対29です。多数がオオカミだって言っているんだからオオカミでしょ!という数の圧力を、まだ覚えています。あれは、怖かった。
けれど何巡も議論を重ねるうちに、ぽつりぽつりと「キツネかも?」という人が出てくる。「こういう風にも捉えられるよね」という意見が出てくる。
対話じゃなくてディベートだったので「中庸を探る」というよりは「材料を持ち寄って正解を判断する」要素の方が強かったけれど、あの経験はかなり今の自分に影響しているなあと感じます。
多数決でバッサリ切り捨てられる少数が間違っているとか、意味がないとは決して思わない。
兎にも角にも、賽は投げられた。この先3年で世の中がどう変化していくのか。常に疑問は持ちつつ、身近で「主張が異なる人」に出会ったら幸運と思って、対話の練習をしていく。
その中で「立場は違えど目指すものは一緒」だったり「敵ながらあっぱれ」という事が必ずあると思っています。
松本佳奈
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?