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政治的立場を越えて、中庸を探る

選挙が終わった。結果は予想していた通りだった。
何より、すべてを見渡して中庸を探ろうとする行為に、とても疲れました。誰かが示してくれた「これが正解だよ!」に賛同する方がずっと楽。自分の頭で考え、自分の言葉で表現するのは膨大なエネルギーが要るし、主張すれば必ず反対側が生まれて、批判にも晒される。

とっても疲れましたが、「これが本当にベストな選択かな?」と常に疑問を持ち続けたい。「これが正解!」と凝り固まって対話の糸口を閉ざしてしまうのが一番やりたくないことなんだなと、改めて思った選挙期間でした。

経済思想家・倉本圭造さんのnoteの中でとても共感する箇所があったのでシェアします。

とにかく「政治的な立場」は自分とかなり違う感じなのに、「具体的な改革案」は物凄く「全く同じことを考えている」ぐらいに同じだったところがポジティブな驚きでした。

「政治的に見ると対立するようで、具体的な課題については同じことを考えている仲間」といかに協力しあえるかが、これからの日本ではとにかく大事ですからね。

で、何が言いたいかというと、「政治的」に見ると岡田氏に賛成な人も反対な人もいると思うんですよ。頑固な「反安倍論者」であることも結構読者を選ぶところだと思う。

私もそういう意味で苦手意識があったんですが、ふと「PTA」の本を読んだらなんか途中から凄い共感して、自分がもし「PTA改革」をやるとしたらほとんど同じことをやるだろうな…というぐらいのシンクロ感を感じたんですよね。

この「具体的な部分ではちょっとのズレもなく同じことを考えているような感覚」と「政治的議論では真逆な結論に達してそうな」感じのギャップが物凄い印象的だったんですね。

だから「政治的」に見ると対立するようで、「社会の未来像」を考える時には全く同じ意見だという「仲間」が本当はこの社会に沢山いるはずなんだなと、まずはその事に衝撃を受けたわけです。


この、立場は違えど「社会の未来像」は一致する部分があるんじゃないかというのが、私がどんな人と対峙するときにも心にある希望です。(岡田憲治氏の「政治学者、PTA会長になる」早速購入しちゃいました)

これまで、何度もSNSやライブの中で紹介させていただいている、ビデオグラファー 森谷博さんの「アマゾン先住民のコミュニティにおける意思決定システムについて」も、決して理想論ではないと思っています。


アマゾン先住民の村では、大切な物事を決めるとき、村人が全員納得するまでじっくりと時間をかける。

話し合いの始まりは、村の真ん中にある「男の家」。そこに男たちが集まり、懸案事項についてそれぞれの考えを話す。賛成、反対、それぞれの思いを、誰に遠慮することなく話す。聴く者は、決して他者の話しに割り込まず、自説を押し付けることもせず傾聴する。特に一族のリーダーは、村人の考えに広くあまねく聞き入ることが大切な役割であり、それが出来なければリーダーとして認められない。
全員がそれぞれの考えを話して行くうちに、他者の考えに賛同する者が出て来る。そうして何巡も話しをして行くうちに、ひとつの落としどころが見つかる。(この過程はクローズドではなく、オープンなので、子どもや女たちも一部始終を小屋の周りで聞いている。)

男たちは最初の結論を持って、家に帰り、母や妻に相談する。実は、村の伝統や知恵を受け継ぐのは女の役割。少女が大人の女になる通過儀礼は、1年間家に隔離され、母親からマンツーマンで、女の仕事、部族の歴史、知恵を徹底的に叩き込まれること。男はそんなしっかり者の女の家に婿入りするのが基本なのである。

彼女たちは、あるときは「そんないい加減な取り決めじゃダメよ」とダメ出しをする。表面上は男が決定権を持っているようで、女がうんと言わなければ、物事は前に進まない。女たちは、手仕事をしながら井戸端会議で、男たちの話し合いの中身をしっかりと吟味していたのである。男たちはとぼとぼと男の家に戻り、話し合いの続きをする。

こんなことを繰り返して行くうちに、やがて村人全員が納得できる答えを見いだして行く。それはポジティブなエネルギーとネガティブなエネルギーが混じり合って、中庸に落ち着く過程そのものであり、その根底にあるのは、村がいつまでも平和で、皆が元気で仲良く暮らせるようにとの思い。ちなみに、彼らの言葉には「幸せ」という言葉はなく、みんなが元気で仲良く暮らしている状態が、あえて言えば「幸せ」だと言う。物事の本質を生きるものにとって、わざわざそれを指し示す必要はないのだ。

ようやく物事が決まったとき、村人全員はすでにその物事の本質を理解し、納得しているので、懸案事項は成就したも同じ。リーダーの指図など受けずとも、一人一人が自発的に動き、物事はスムーズに進んで行く。

彼らアマゾン文明人にとっては当たり前のことで、いまさら取りたてて言うほどのことでもないのだが、私たち蛮族日本人はここから何を学ぶのか。

森谷博

ただ、日々の中で、主張の異なる人とぶつかる場面は少なからずあって、そこで「なるほど、あなたはそう思うんですね〜」で終了して良い時もあると私は思っているんです。
何かを決定しなきゃいけない時はとことん対話して中庸を探る。でも、「私は私、あなたはあなた」で、互いの大切にしている領域をむやみに否定せず「そうなんですね」と知るだけで良い場面もたくさんある。何でもかんでも自分と異なる主張を「それは違う!」と"正そう"としなくてもいいんじゃないかなと。相手を正そうと舵を切った時点で対等ではなくなるし、それは対話じゃなくて"説得"ですから。

それが明らかにデータに基づかないデマや、「騙されていますよ!詐欺ですよ!」って時には口を挟むこともあるかもしれない。だけど実際「誰にもわからない」「やってみなきゃわからない」こともたくさんあると思う。

言い負かすこと(いわゆる論破?)と対話は全く別物なのですが、そこが混同してしまうと、そりゃ主張ぶつかるの怖くなるよなと。

小学生の頃ディベートの授業があって、国語の教科書に載っていた「きつねのおきゃくさま」の中の「いや まだいるぞ。きつねが いるぞ」というセリフを「キツネが言ったか?オオカミが言ったか?」で議論したのですが、クラス約30人の中で1対29になって、その1が私だったんです。

私からすれば「え!?どう考えてもきつねでしょ?きつねが、ひよこたちを守るために先頭切って飛び出す覚悟を決めたセリフでしょ?」でしたが、何せ1対29です。多数がオオカミだって言っているんだからオオカミでしょ!という数の圧力を、まだ覚えています。あれは、怖かった。

けれど何巡も議論を重ねるうちに、ぽつりぽつりと「キツネかも?」という人が出てくる。「こういう風にも捉えられるよね」という意見が出てくる。

対話じゃなくてディベートだったので「中庸を探る」というよりは「材料を持ち寄って正解を判断する」要素の方が強かったけれど、あの経験はかなり今の自分に影響しているなあと感じます。

多数決でバッサリ切り捨てられる少数が間違っているとか、意味がないとは決して思わない。

兎にも角にも、賽は投げられた。この先3年で世の中がどう変化していくのか。常に疑問は持ちつつ、身近で「主張が異なる人」に出会ったら幸運と思って、対話の練習をしていく。

その中で「立場は違えど目指すものは一緒」だったり「敵ながらあっぱれ」という事が必ずあると思っています。

松本佳奈

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