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「お母さんなのに」の呪縛

「親」になった途端。

「お母さん、パソコン使えるんですね」
「お母さん、よくそんな細い道運転できますね」
「お母さん、ピアノ弾けるんですね、すごい」
とか言われることがあって

そのたびに「この人は何が言いたいんだ…」とポカンとしちゃうのですが。

「主婦は子育て以外何もできない」と低く見る風潮は長いことあったのかもしれないし、「お母さんなんだから家事育児優先で(自分のことはそっちのけで)頑張らなきゃいけない」という空気もあるんだろうなと思う。


人に何か言われるとき、「この人はそういう価値観で人生を生きているんだな」「この人にはそう見えているんだな」と思う。私の価値観とは違う場合もあるし、同じ世界を生きているのに人それぞれ全く別の角度からものを見ているんだなと感じる。

人の数だけ視点があって、その視点を持つようになった歴史があるわけだから、わかり合えない部分があるのは仕方ないこと。

「◯◯なんだから◯◯でなきゃいけない」

という思い込みが少ない方が断然ラクに生きれると私は思っているけど、そういう縛りがあったほうが精神が安定する人もいることを知っている。


私は母親である以前に35年生きてきたひとりの人間だし、親になったのなんてこの数年のことで、親じゃなかった時間の方がまだ断然長いわけで

親になったから急に家事が得意になったわけではないし、裁縫なんてもってのほかで、今後も相当必要に迫られない限りやる気はない(人には得意不得意ってもんがあるだろ)

飲食店のキッチンで働いてきた年数が長いから料理は苦じゃないけど、自分が作る料理よりも外で地魚やあん肝が食べたい日だって当然ある(つまみに合う日本酒も飲みたい)

人の命を育てるっていうのは確かにエネルギーのいることで、子どもを産む前と産んだ後では生活を変えざるを得ない部分もたくさんあった。けれどやはり私は私であって、「親」という視点が一つ増えたというだけで、「お母さん」という生き物に変わったわけじゃないのだと思っている。こっそりと。

育児は私にとって、「性格はよく知らないんだけど、妙に愛おしくて大好きな人と始まった突然の同棲(期間限定)」みたいなものです。

松本佳奈

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「ポテサラおじさん」ドイツでは有りえない理由「母親への要求が高すぎる」日本のモヤモヤ

https://toyokeizai.net/articles/-/365647?display=b

以外抜粋↓

考えてみれば、これだけ選択肢が多い今の世の中、ポテトサラダを手作りしようが、市販のポテトサラダを買おうが自由なはず。それを認めようとせず、市販のポテトサラダを買おうとする子連れ女性に対して「ひとこと言ってやりたい」中高年の男性の加害性については、あまり問題視されていなように見えました。
今回の件に限らず、日本の中高年男性が怒りっぽくなっていることはメディアでもたびたび取り上げられてきました。彼らが特に「自分よりも若い女性」に対して暴走しがちなのは、日本の社会が女性、とくに「お母さん」に対して多くを求めがちな一方で、彼女たちを低く見てきた結果ではないでしょうか。

〜中略〜

マタニティーマークのないドイツではどうしているのかというと、妊婦が自ら座っている人に話しかけます。
「妊娠しているのですが、すみませんが譲ってもらえませんか?」と。筆者もミュンヘンの地下鉄で何回かこの光景を見ましたが、言われたほうは“Aber natürlich!(「もちろんです!」)”と満面の笑顔で席を立つので、見ていてほのぼのとします。
日本の感覚だと、女性自ら「私妊娠しているので、席を譲ってもらえませんか?」と話しかけるのは違和感があるかもしれませんが、ドイツはもともと公共交通機関などで知らない人同士で会話をするのはごく普通のことですし、困った時に知らない人に声をかけることも普通です。
そういった背景があるため、ドイツではマタニティーマークの需要はなく、それよりも「会話」が重視されています。妊婦さんに限らず、何かをしてほしい時は、自分の口で述べて会話をすべきだ、というのがドイツ社会のコンセンサスなのです。

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