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遠くで鬼が鳴る

 映画や本を読むことが娯楽であるように、他人の人生や心の内を覗き見るのもある種の快楽ホルモンが出るのだろう。
 相談に乗るのが好きだと公言している人たち、すぐに話を聴かせてほしいと言う人たち、落ち込んだ様子のSNS投稿に対して、「私で良ければいつでも話を聴くからね」とコメントする人たち。
 私の周りにも何人かいる。その誰もが基本的には良い人で優しく、共感しやすいタイプだ。
 そして同時に、無自覚に他人の不幸に興味があり、承認欲求が強い人でもある。あるいは、本当は聴く以上に自分の考えを伝えたい人でもあるかもしれない。

 この人もたぶん、不幸が好きな人だ。
 私はなるべく淡々と話しながら、目に涙を溜めている自称カウンセラーの女性に冷ややかな視線を送っている。
 涙のベールのせいか、彼女が私の視線の冷たさに気づいている様子は見受けられない。
 かく言う私も彼女のカウンセリングの効果は、未だわからない。

 半年前に私はうつ病を発症した。2回目だった。
 気持ちの問題かもしれないけど、気持ちだけで解決はできない。
 医師と相談して、休職することにした。
 半年経って、ようやく少し動けるようになった。季節は、冬から初夏に代わっていた。
 今日は自称カウンセラーの女性が主催するワークショップに参加した。
 このワークショップのチラシには、「メンタルの強さに関係なく、自分で回復できるメソッドを学べる」と書いてあった。その一文の隣には、「簡単なカウンセリングもいたします」と、わざわざフォントを変えて添えてあった。
 緊張しながらやってきた会場は、よく日差しが入る公民館の二階にある会議室だった。
 講師の女性も過去にうつ病を繰り返したそうだ。その経験を活かして、今はこうしてメンタルコーチだったかカウンセラーだったか、そういった活動をやっているらしい。
 一緒に参加した他の人たちは、以前から講師とは知り合いのようで、私とは違うにこやかな視線を彼女に送っている。
 私はなるべく雑談には加わらないようにして、特になんの感想も感慨もなくワークをこなし、やはりなんの感動もなくワークで使ったシートを眺めていた。
「ワークをやってみてどうでしたか」
 何か物思いにふけっていると思われたのか、一番最初に講師に感想を聞かれてしまった。
「えーと、まず今日はありがとうございました。こうしてみると自分を客観視できてない部分が結構あったな、と気づけました。定期的に振り返って今日のワークができるとよさそうですね」
 一文字も気持ちが乗っていない言葉が口から流れ出て、たぶん講師に届く前に長机にできた陽だまりの中で蒸発していった。
「先ほどお話を聞かせていただいたときもそうでしたけど、すごく冷静にご自分のことを理解されていて、とても良いと思います。比較的男性のほうがそういう傾向にあるようですが──」
 やっぱりだ。この人は、「聴く」よりも「聴いてほしい」の方が強い。一度話し始めると、なかなか止まらない。相手がどう感じたかを言葉にする手伝いをするのではなく、相手の話を受けて自分がどう感じたかをひたすら話している。早口ではないけれど、そのせいで聞き流しにくい。
 あ、やばい。適当に相槌を打っていたら、全然違う話を自信たっぷりに話し始めた。どんどん話に勢いがつく。
 これで、もっと面白いこと言ってくれてたらなぁ。
 私の不毛な「たられば」も陽だまりで蒸発してしまった。

 考えているフリをして、窓の外に目をやる。講師の話と同じくらいの勢いで、入道雲が成長していくのが見えた。先週半ばに梅雨明け宣言が出されてからも雨の日が二三日続いていたが、今日はいかにも夏らしい日だ。
 あまり外ばかり眺めていると、考えてなさそうに見える気がして、視線を室内へ戻す。講師はまだ話していた。さっきより講師のジェスチャーが小さくなったように感じる。
「──っていうことなんです。だから、このワークで大切なポイントを押さえてQOLを上げていくことがね──」
 隣に座っていた参加者の女性が、お辞儀を繰り返すように頷いて声をあげた。
「そう、このワークやるとQOL上がりますよね。私、今回2回目ですけど、以前やってから変わりました。このワーク、本当にすごいですよ!」
 私はその参加者に、講師との会話をパスすることにした。私はうんうんと頷きながら、視線を資料に落とす。淹れてくれたアイスティーの香りがふっと鼻をかすめる。
 講師のジェスチャーがまた少し大きくなったのが、視界の端に見えたような気がした。
「うわー、それは嬉しいです。苦しんでいる人の力になれるのが、何よりです」
 話は続く。まだまだ続く。講師とすでに知り合いらしい他の参加者で盛り上がっている。
 遠くで雷鳴が聞こえた気がする。今度は外を見ずに、スマホを取り出す。天気予報を確認する前に、今回のイベントページを確認する。
『お話し聴かせてください。何時間でも聴けるのが特技です』
講師の紹介文には、そう書いてある。動詞が間違ってる。私は頭のなかで文章を消し、書き直した。
『お話しさせてください。何時間でも話せるのが特技です』
 これでよし。
「──がんばるときはあるかもしれないけど、でも、基本は楽に自分のペースで生きられたらいいですよね──」
 他人の人生や心の内を肴にして、よくここまで話せるもんだな、と半ば呆れている。氷が全て溶けて、グラスの結露も乾きつつあるアイスティーの残りを、全部ストローで吸い上げる。ずずっと小さく音が鳴る。
「すみません、そろそろ次の予定があるので、お先に失礼します」
 なるべく申し訳なさそうな顔で言ったつもりだけど、うつ病になると表情筋も動きにくい。ただぶっきらぼうに言い放っただけになったかもしれない。
「あ、ごめんなさい!私がしゃべりすぎましたね。今回はありがとうございました。ぜひご自宅でもまたやってみて、メンタルを整えていってください」
 悪いと思ってないのは、お互い様か。

 公民館から出ようとして、重いドアを「よっ」と声を出しながら力を込めて押す。開いたすき間から暑くて濃い空気と蝉の声がなだれ込むように侵入してきて、身体にまとわりつき耳が絡め取られた。
 たぶん講師の人は、本気で参加者を救う気でいる。菩薩みたいに良い人かもしれない。他人の不幸な話を積極的に聴ける人だ。そんな人の手を、私は払い除けてきた。救いを拒否するのは、悪魔だろうか鬼だろうか。
 歩いていると急に日が陰ってきた。空からティンパニの連打のような音が近づいてくる。
 雷様は鬼だったんだっけ。
 急に降り出した雨が顔を叩く。
 私は心の中で、「鬼さんこちら」と呟いて駅へ走った。




七緒よう

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