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『完全無――超越タナトフォビア』第百二章

この作品でこうしてわたくしが皆さんと出逢えたことも含めて、ハロー、なにもかもが、グッバイ、もうすでに無的に起こってしまったぜ!

そう、それこそが完全有的なイメージ。

有を確固たる前提としてしまう儚くも強靭な前-最終形真理。

ニセモノの有(それは、形而下学的な前-最終形真理、すなわち、日常生活世界において科学的思考によって成立する真理)なんて屁でもないぜ、と今こそチビたち、そして読者の方々と叫び合おう。

さらに付け加えるとするならば、もうすでに起こってしまっている、ということが完全に無であるような世界(つまり、無化されるだけの世界)、もとより何もない世界でありながら、何ものかをありありと認識してしまう意識を自明のものとして認めてしまい得るような人間たちに都合の良い世界(しかし、それは人間たちによって奇跡的な知性とも称されるのだが)、それこそが形而上学的な前-最終形真理としての世界であり、それは、ダミーワールドに過ぎない。

そのようなダミーワールドとしての真理段階に関する発想が前半の章においてわたくしの思念に浮上することがなかったのは、逆に僥倖だったと言えよう。

この作品の前半においては、前-最終形真理とは、常識的で科学的な世界観を呈するものすべての範疇のみを扱っていたではずだ。

しかし、今やそのような世界観は、二つに分かたれた前-最終形真理における下位の概念へと一段下がることとなったのだ。

認識の階梯として、科学的発想のほとんどは、最終的な【理(り)】の二歩手前の位置に留まらざるを得ない、ということだ。

いわば前-最終形真理の二層化が何ともえぐみのある発見として、この作品上で達成されたこととなるのだ。

そこで、わたくしはそれら二つの前-最終形真理に新たなる命を吹きこむために、呼び名をきちんと与えようと思う。

どこまでも有のみを「世界の世界性」として扱うあらゆる学における真理レベルを、「形而下学的-前-最終形真理」と名付け、ニセモノの無を有的な動性と関連付けて捉える、想像不可能でありながら、人間たちの多くが想像可能だと見誤っている「世界の世界性」、そしてそれと必ず認識論的にリンクする真理レベルを、「形而上学的-前-最終形真理」と名付けることとする。

さらに、それらの上の段に君臨するのが完全無、すなわち【理(り)】への到達条件であり、その完全無という世界性においては真も偽もなく【理(り)】あるのみであり、その【理(り)】とは究極的には【理(り)】の自爆をも要請する、というさらなる半段階のジャンプをも要請することとする。

たとえば、科学における「動的平衡」の概念は、足し算引き算の相殺性と動的に繋ぎ止められているという点で「形而下学的-前-最終形真理」であり、哲学における「絶対無」の概念(たとえば西田幾多郎哲学のそれ)は、無と有とが超越的に連鎖してしまっているという点で「形而上学的-前-最終形真理」である、と定義できよう。

理論物理学者ホーキング博士が考案した「無境界仮説」における実時間への虚時間の導入は、その超越的飛躍のイメージによって「形而上学的-前-最終形真理」のように定義できるわけだが、当人はどうやら物理学的方法論(すなわちモノやコトの具体性に依拠した解釈)による宇宙の謎の解明にこだわっていた。

その辺りの、いわゆる理論物理学者たちの真理レベルにおけるわたくしの推す「完全無」との齟齬は大変に興味深いところであり、物理学でありながらも思わず知らず形而上学の領域に果敢に踏み込んでいたことは、哲学における究極の謎にトライするわたくしたちにも巨大な示唆を与える試みであったと言えよう。

虚数は実体、つまり形ではないが、存在者としては実在する。

「無境界仮説」は物理学と形而上学とのフュ―ジョン、クロスオーバーであり、大変に蠱惑的な発想ではあるのである。

そして、形而上学は本来的には真実在を追い求める「学」である。

感覚界のみを対話者としている「学」ではないのだ。

そういった部分を鑑みて、わたくしは形而下学よりも形而上学を優位に扱わざるを得ない、ということを申し添えておこうと思う。


さて、完全無は別格として、完全有という「世界の世界性」、そのえげつない儚さは、現象そのものがありありとし過ぎていることに由来するのだが、麗しいばかりの圧倒的確かさをもってわたくしたちに無的に迫り来てしまっているのだ。

生命体であろうと非生命体であろうと、存在者のすべての行為は成し遂げられているがゆえに、あらゆる存在経路は無的に閉ざされていて積分不可能である。

計算は常に空回りし、どのような演算も無限にやり直さねばならないだろう。

計算機の画面表示は常に無を繰り返すだろう。

あらゆる行為は、あらゆる空疎。

あらゆる行為はあらゆる無意義。

それらは無的な空動。

それらは言わば「無-動」。

さあ、何をしてもいい。

何でもするがいい。

何をしたところで、それはすでに完成しているのだから、行為そのものの価値を推し量ることも、好悪の感情で批判することも、「世界の世界性」にとってはもはや遅すぎるのだ。

完全有においては、行為のすべてが、あらゆる次元、いや次元という抽象性すら超えた何らかの場が――あらかじめすでに――存在し得ない無において成されている、という概念(わたくし独自の)を少し気取った表現で短く言い表すならば、無的なる空動、すなわち「無-動」ということになろうか。

ただし、この完全有を欺瞞的に分かち合うために人間たちが創り出してしまった時間や空間とやらを、ただ単に一般的常識のレベルにおいて共有したい、というのであれば、つまり、公共の福祉を意識しながら社会的、道徳的に生活したいのであれば、人間たちの意識さらには人間たち相互の共通意識の礎たる脳味噌、すなわち、エリア別に司令塔の佇立するフィールド、電気信号に敏感な質が現象を規定するネットワークという相互扶助、ドンパチ騒がしき神経システムの揺るぎない信号制御、すなわち先行する刺激を処理し、後行する刺激の促進もしくは制御するという一連のプロセス、それをアプリオリな機能として蔵する脳味噌環境という主観的(かつ間主観的)情報を後生大事に守り切ろうと縋る、そのような生き方をする方が都合がよい、と言えるかもしれない。

脳内環境はまさに社会の縮図である、などという陳腐な比喩が四方八方どこまでも援用可能なのは、社会そのものが、あれやこれやのネットワーク、相関関係、相互扶助、持ちつ持たれつの依存性などの文言とリンクしやすいからである。

そして社会とは当然のことながら世界そのものと個々の生命体とを繋ぎ止める紐帯でもある。

人間たちにとってあらゆる場は、相互、相関、相対の雨あられ状態である。

そして、そのようなレラティヴィズムへのアディクションを誘発する役割を担っているのが、ニセモノの有の世界、限局的にしか世界を把捉できない人間たちの学と相応するところのニセモノの世界なのである。

ニセモノは絶えず分枝する。

現象世界というニセモノは動的無限性の多肢的構造を持ち得るのだ。

だがしかし完全有の世界においては、何をしようと、何が起ころうと、それはもうすでに起こっているのだ、無として。

しかし、おかしな話ではないか、無と有とが接するなんてことは。

その意味で、完全有とは、必ず相対的無との兼ね合いにおいて中道的に認知される運命に縛られているのだ。

いわば、有とは単なる規定されたルールに何の疑いもなく従う、という態度という意義を持つだけであって、世界においては元よりニセモノだったのだ。

実存主義哲学者サルトル流のタームをこの流れにおいて引き合いに出すのは幾分突飛かもしれないが、ご容赦願いたい。

彼の好んだ概念、即自・対自・対他、それらの単語は、単に存在者の存在を立ち位置を変えて(もちろん、このような位置変換は完全無の世界においては不可能であるが)まなざす個々人の視線的ベクトル、それの仕分け作業の餌食に過ぎないのだ。

それに対して、ことばは厳密性を欠いて使用すべきではない、とわたくしは心配するのみだ。

世界そのものを分節化して、その分けたものを何らかの存在者として捉える人間たちの知覚、意識というものを、動的無限性のベクトル・ネットワークによるアナロジーでもって語り得るのは、現象、つまり有という場においてだけだ、という点を考慮すれば、ベクトル的な量というものは、何らの価値も蔵さない。

生きものの知覚、生きものの意識に志向性があろうとなかろうと、ベクトルという方向性の矢印は、想像不可能な無によって全体的に分割されてしまっているのだ。

それこそが、有から一段ステップ・アップしたように見えるが、よくある形而上学的な位相に漂う完全有という「世界の世界性」である。

確かに、いかなる思惟を巡らせたところで無が何ものかに作用することなど不可能なのだが、ともかく、無の包丁で有を切り刻んでしまっているのが完全有の世界である、そのようなイメージを持つとよいだろう。

肉としての有、それを横たえるためのまな板、まな板を載せるためのキッチン・カウンター……以下無限に続くであろう有のすべては、その動的無限性と同調して無の包丁ですでにして切り刻まれ、無化される、ということなのだ。

無化という引き算は、有にしか適用できない。

完全無とは決して想像し得ないものなのだ。

可能性のすべてを掻き集めつつ、その数をナンバリングし続けるときに、世界が有限であるならば、その数の最大値を特定できるだろう。

世界が動的無限であるならば、希望的観測として最大数という究極に辿り着ける可能性に賭けることもできるだろう(もちろん、事実としてそのような数は存在し得ないのだが)。

しかし、「世界の世界性」とは有限性でも動的無限性でもない、というわたくしの行き着いた「世界の世界性」を規定するひとつのルール、その厳密性を今すぐ胸に刻んでほしい。

何らの幅も持たない「世界の世界性」、それを誰がイメージできようか、と反発の声が止まないことは予想できる。

しかし、そのような想像不可能性を思考実験してみるという体感が、タナトフォビア克服への鍵である、ということを何度も示そうとわたくしは決意ししたのだ。

ニセモノの無から、完全無へと飛翔するために。

突き詰めて現象としての世界に対して単純に物申すとすれば、起こることなく起き切ってしまっている、とも言えるのだが、起き切る、ということすら、すでにして無効化されているのが、完全無という「世界の世界性」である。

つまり本来的には「自由意志」というものは絶対的に存在しないという枷が、完全無の側からの要請である、という気付きを、既存の哲学者たちの思想と比較してみるならば、わたくしたちは、「自由意志」の問題をもその思想の体系の中に際立たせることに成功したカントの道徳哲学をも否定して乗り越えなければならないだろう。

ドイツ観念論の雛形を用意した批判哲学者カントの叡知界(可想界)、つまり因果律に縛られた現象界(感性界)とは別次元の、最高の認識能力(つまりは、純粋な理性)によってのみ触れることのでき得る超感覚的世界、それがどのような位相にあろうとも、それが人間たちの脳味噌の機能と切り離すことのできない概念として規定されている限りは、単なる主観性に依拠した自由に対してだけにしか権能としてその存在を保持することはできないだろう。

叡知界において自由の原因性が成立しようとしまいと、意志の自由というものが、己に対して、いや、己だけを従わせる意志の自律と等価であるならば、その関係性において発生しているところの、ありありとしたベクトルを見逃すことなどあり得ないのではないだろうか。

生そのものを歓喜の愛撫で満たすために、意志を尊ぶべきだろう、ということに対しては情状的には同意できる。

わたくしも生命体だからである。

しかし、尊ぶべき意志が――あらかじめすでに――全一的に無によって切り刻まれた、いわば焼き殺された「幅」無き概念であるとしたら、そこに自由はあるのかい、概念の根拠が無規定である場合、そこに自由は存在するのかい、自由を認識できるのかい、という話をしているのである。

「自由意志」の問題はとりあえずはこの程度に留めておいて、ゆっくり急ぎつつも次の章へとバトンを渡そうと思う。

主要な問題はそれではない、いや、それだけではない、ということ。

特に沈思すべきこととして、なぜ人間たちが世界に対してありありとした何ものかを感じ取ることができるのか、つまり、完全無としての「世界の世界性」を形而下学的な世界として超越的把捉できるのはなぜなのか、という問題がある。

この作品の後半戦においては、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という綻びのある問いよりも、そちらの問いの方が重要性を増してきた、とも言えよう。

世界は有限でもなく、動的無限でもない、ということを保証し得る完全無、その完全なる無を超越的に破壊する奇跡的な能力、すなわち愛の究極態をなぜ人間たちが備えることができたのか、ということ。

奇跡はなにゆえ実現しているように思われるのか、ということ。

それらの問いこそが、実のところ最も厄介な未解決問題、哲学における究極の問い、わたくしたち生きものが問うことの許される臨界点としての凄絶なるクエスチョンかもしれないのである。


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