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『完全無――超越タナトフォビア』第九十八章

さてチビたち、話を少し曲げさせてもらおう。

しっぽのないきつねであるわたくしは、何かと紆余曲折という余計なものを付け足したくなる性質でね。へそまがりとは呼ばないでくれ、なんせへそもないんだ、このわたくしは。

ええ、そもそも【なぜ何もないのではなく、何かがあるのか】という問いの明文化というのは、フランスの合理主義哲学者であるライプニッツの論文の一節に端を発すると言われている。

「世界が実在しないよりもむしろ実在するのはなぜなのか」という問い、がそれだ。

もちろん、そのような問いはライプニッツ以前にも問われたことだろう。

だから、ことさらライプニッツだけにこだわり、彼を慧眼の士として讃えることもなかろうが、とにもかくにもこの時点において少しは触れねばならぬ人物であることは確かだろう。

さて、ライプニッツによる『モナドロジー(単子論)』によると、モナドと呼ばれる単子は無数に存在しているというが、無数といった表現はどうしても無限という動的かつ不正確な観念を人間たちのこころに想起させるがゆえに、わたくしの希求した【理(り)】の体験、要するに「世界の世界性」としての完全無とは相容れることができない概念なのだ、と苦々しく口ごもらざるを得ないのだ。

もし仮に、完全有の面から世界を取り上げたとしても、つまり、人間たちの、人間たちだけによる、人間たちだけのための「学」に関わり得る範囲から世界そのものを鑑みたとしても、了承し難い側面をモナドは持っている、と言えるのだ。

なぜならば、世界はモナドの関係性のようなもので構成されているわけではないからだ。

ライプニッツは『モナドロジー(単子論)』において、ヒポクラテスの「すべてが共に呼吸している」すなわち「万物同気」という文言を引用しているのだが、各モナドが全宇宙という全一的な単純体と符号している、という発想はありきたりな思想とは言えないだろうか。

ここで完全無という究極を持ち出すまでもなく、人間たちと連関する概念である有(ニセモノの有、つまり完全有ではない有)の側からモナドといういかがわしいものを総体として睨み付け目を凝らしたとしても、まずもって世界はひとつやふたつと取り纏めて数えられるものではない、というわたくしの全体性の否定の思想を思い出してほしいのだ。さらに、個物的な何ものかも存在し得ないというわたくしの突飛な思想と照らし合わせればモナド論における各モナドのそれぞれに対する認識論の不手際さは充分に露呈されてしまう、と言えるだろう。

モナドというものは、超越的であるのに内在的に変化する、ともライプニッツは言う。

しかし、変化するからには空間や時間というパラメータに依拠しなければならないだろう。

永遠に時を刻み続ける神の予定調和、神の恩寵としてのねじ巻き時計としてのモナド、その性質として、モナドは延長を持たない、ということをライプニッツが明言しているのが不思議だ。とうことは、各モナドには実的な大きさがあり、つまり任意の幅がある、ということになり、わたくしの独特の思想である完全無という「世界の世界性」と同列に並べることはできないだろう。しかし、ライプニッツの実体論に関してはライプニッツ自身が定義的に揺れに揺れ動いてるので、わたくしがあまり深追いしても意味がない。ユークリッドの『原論』によれば、位置だけを持ち部分を持たないもののことを幾何学的点と呼ぶ、と定義しているが、わたくしはそのような帳尻合わせは認めたくないのだ。無の釘が時空という板に突き刺さることはないのだ。ともかく、完全無とは、何らかの実体そのものの定義に左右されることのない無相関な世界性だからこそ、ライプニッツの実体論云々とは相容れない、ということなのだ。

まあしかし、完全無を持ち出してしまえば何事も成立しない、という点で、何を語ろうとも、すでにしてあらゆる概念は放棄されているという、つまりどんな概念もすでにして無い、ということは議論を最初から放棄しているようなものではないか、そのようなアドバンテージをあなたが先に確保してしまっているのは狡猾ではないか、という突っ込みがあっても確かにおかしくはない。

しかし、だからといって、そこで沈黙してしまえば、その沈黙は沈黙以上の轟きを発動させることができないだろう。

真に押し黙るためには、語り尽くさねばならないのである。

真に押し黙るのは、この作品がフィナーレに達してからでも遅くはないだろう。

話を戻そう。

無数のモナドにはそれぞれ属性があるという。

ということは、各モナド特有の属性が判別されるためには、差異をそれぞれが持たねばならない。

そして、差異とは因果関係がなければ成立し得ない。

たとえモナド同士に因果関係がなくとも、ひとつのモナドの中で因果関係が成立し、変化するのだとしたら、そのような「世界の世界性」とは、完全無ではない、つまり同時に完全有でもないだろう。

ありありとした現象が無的に完成しているという性質、それが完全有であり、世界そのものの側からすれば、それはダミーとしての世界である、というのがわたくしの主張である。

完全有ではない事物のありありとした存在性、そのようなニセモノの有をライプニッツの実体論に援用するならば、モナド同士の隙間にニセモノの無を設けることで、各モナドを孤立した何ものかとして想定することで、相関関係というネットワーク(そのネットワークそのものは延長を持つ、と仮定して)を世界に張り巡らすことであるならば、確かに可能かもしれない、ということのなのだ。

そして、相関関係を重要視する人間たちの現代の科学的観点からすれば、ある個物とその個物ではない個物との積、たとえばチビとニセチビについて、チビ・ニセチビとニセチビ・チビとが一致できない、すすなわち幾何学的な構造として非可換幾何(属性として可換構造を持ち得ない幾何)という概念を世界(科学的には時空)が呈することになるのだ、と仮定することも可能だろう。

しかし、古い世界概念である連続体から、摩訶不思議な離散体へとその論を移したとしても、先程から何度もわたくしが主張しているように、有と無とが隣り合わせになることは無い、という定義から逆算すれば、可換であろうと非可換であろうと、世界は幾何学的構造を持ち得ない、ということは火を見るよりも明らかであろう。火を見るより明らか、という陳腐な言い回しをしなければいけないほどに、わたくしにとっては当然の論旨の帰結なのである。

再度言おうではないか。ニセモノの有を完全有として、つまり世界を、非頽落的に一段上から鑑識するならば、無と有とは決して接することはない、というルールによって、モナドの実体性は根本から(つまり存在論的に)崩壊せざるを得ない、ということは目に見えている、ということを強く言いたいのだ。

もちろんニセモノの有、つまり完全無としての完全有ではない有のみ扱い得る科学において、エレガントかつグランドな理論として、たとえば自然界における四つの根、つまり力の基本性を成り立たせるところの「電磁相互作用としての力」「弱い相互作用としての力」「強い相互作用としての力」「重力」それらを統合するような大統一理論(万物の理論)が達成されれば、ニセモノの有と完全有との蜜月は今よりも深まる可能性はあるのにはあるのだが……。

しかし、しかしである。

各モナドが内在的に変化する力を有しているのだとすれば、要するに、主体として動的に活動でき、さらに各モナドが実体として孤立しているのだと主張することができるならば、結局のところ、それらはニセモノの有とは呼べても、完全有とは呼べない限界を自らに強いている、ということでしかないだろう。

完全有と呼べる何ものか、ということは、その何ものか、をも拒否するところの完全無だからである。


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