見出し画像

自分語りに支えられる瞬間

 産む前に、いや妊娠する前に、もっともっと好きなだけ自分語りを残しておけばよかったな。
 産後8ヶ月、少しだけそんな後悔をしている。


 子どもができて以降、どうにも自分というものがふにゃふにゃと曖昧になった。
 手足はいくらでも動くのに頭はぼんやりしている。自分個人としての欲求がよくわからないことがある。漠然と省エネというか、赤ん坊以外のあらゆるものに対して、気力・感情の発動がMAX時の5割くらいにとどまってしまっている感覚がある。

 これはもう仕方がない。長期間のワンオペ育児でワーキングメモリの大半を赤ん坊に占拠されている状態だから、自意識の方に回すエネルギーが根本的に足りないのだ。まわりの出産経験者と話していても、同じような状態になっている人はとても多い。

 しかしこの状態、これから何かを頑張りたい、人生を面白くしていきたいと考えているときにはいささか不便である。
 「自分」感覚が薄くなっていると、自分が何に一番グッとくるのか、どこにこだわりたいのか、何が絶対に嫌で本当はどういった状態を理想としているのかといった、「自分は次、どっちに向けて一歩を踏み出せばいいのか」を考えるためのポイントもアヤフヤになる。その結果、世間が広告的に示してくる「最適解」に心乱されるようなことにもなりやすい。

 そんなわけで私は最近、過去の自分をよく参照する。昔書いたものを読むと、「そうそう、私ってこういう奴だった」と気を取り直せることがよくあるのだ。
 昔の自分に戻りたいとは思っていないが、今この瞬間の自分の土台、根っこ部分に何があるかを確認するのは、ここから先に進んでいくのにも有益だと感じている。

 で、そうしていると思うのだ。


 私の自分語り、足りていなかったな。



 いや、わかってる。
 たぶん現時点でも、私は一般的な日本国民の100倍くらい自分語りを書き残している人間である。

 なにしろこのnoteだけでも200万字以上のログが残っているし、それ以外の過去のホームページ(ブログではない)記事やらブログ記事らも、一番古いものだと2005年分から、わずかだがデータをとってある。さらには日記や、ただ考えたことを書き殴っただけの雑記帳が分厚いノートで十数冊分、段ボールにガサガサと詰め込んである。

 しかし恐ろしいことに、それでも不足を感じる。
 量の問題じゃない。
 問題は質だ。濃度だ。
 自分の原液をそのまま駄々流したような文章を、私はこの数年あまり残していなかった。だから不足を感じるのだ。

 一言で言えば、イタい自分語りが足りていなかった。
 
 はあ、私ってただ毎日つくりおきと離乳食と子どもの授乳時間のことばかり考えている空虚な女だな……と思っているところに、昔のどぎつい好き嫌い語りの文章など流し込むと、夢から覚めたような、記憶を取り戻したような気がする。
 産後の弱った体と薄くなった自我には、「イテテテテ……」となるくらいの自分語りの方がしみるのだ。しみたあと、あまりの痛さにこっそり削除したりフォルダの奥深くに封印したりもするけれど。
 
 そういうものが、この数年分はあまりない。まったくないわけではないが、それ以前に比べていきなり減る。

 ネットに残したものを読み返していてつくづく思うのが、人に読ませる前提で書かないと深く掘り下げないことや、きちんと流れがわかる形で書き残さないことがたくさんあるよなあ、ということだ。

 人に読ませることのない雑記帳に書き残した文章はもちろん極めてパーソナルな情報だし、生々しい事実を含んでいる。 一方で「メモ」になりやすく、事実を思い出すきっかけ以上の読み物にならないものも多々ある。

 その点他人に向けて書いた文章の場合、一応は何かしら伝える主題というものがあり、そこに自分のこだわりがにじみやすい(無論逆もある)。
 人に伝えるならここは書いておかなければならないとか、逆にここは書くほどのことではないとか、他人向けの文章にはそういった取捨選択や自分なりの配慮、もしくは見栄が強く出る。だからこそ、時間をおくと自分の書いたものであっても他人の文章のように突き放した目で読むことができるし、新鮮な気持ちで解釈できる。それが面白い。

 そういう意味で、このnoteに書き残してきた文章は、私にとって大変ありがたい”資産”といえる。
 2016年の2月から投稿し始めて8年、中断していた時期もあったが、何度もマガジンという形で内面を綴ってきた。クローズドな場所だったからこそ書けたことがたくさんあるし、読んでくださった方とのやりとり込みで記憶に残っていることも多い。おかげでマガジンを発行していた時期の自分に関しては、それなりの濃度で振り返ることが可能なのである。
 付き合い方に悩んだ時期もあったし、今も考える部分はあるが、残しておいてよかったと思う。

 
 実を言うと私は30歳を過ぎたあたりから、意図的にネット上に残す自分語りを減らしていた。あまりにも書き過ぎているかも、と思うようになってしまったからだ。

 今でもよく覚えているやりとりがある。
 ある時、ほぼ同世代のとても美しく聡明なライターの女性と二人きりでいたときに、彼女が私のツイッターを見て、真顔でこう訊ねてきた。

「みきさん、さっきのこのツイートって……読んだ人に何を伝えたくて書いたんですか?」

 彼女が示したのは、私の”いつもの”ノリのツイートだった。「私ってこういう奴なんだよな〜」という、至極どうでもいい自分語りである。
 何を伝えたくて……!?
 私は困った。私は学生時代からの筋金入りのツイ廃で、そばにいる人と雑談するような勢いでなんでもバンバン書いてしまう方だったからである。「私ってやっぱ、とろとろプリンより固めプリンの方が好きなんだよな〜」「占い師にこんなこと言われちゃった。身に覚えあるわ〜」などといった雑談に、高尚な「伝えたいこと」などないと言っていい。あえて言うなら、「私のことを知ってほしい」というだけだ。

 なのでそこは正直に、単なる自分語りです……と私は彼女に言ったと思う。
 すると彼女は「ふうん……」と言って、ゆっくり頷きながら優しく微笑んだ。悪意は一切なかった。彼女には本当に不思議で、本当にピンとこなかったのだ。私のような、無意味な自分語りをし続ける人間の感覚が。
 いい歳こいてネット上で無駄口ばかり叩いている自分を彼女に見透かされている気がして、なかなかに恥ずかしかった。

 その頃から、私は不規則発信量を(当社比では)減らしていった。
 もう30代なんだし、なるべくみっともなくない、件の女性ライターのような人をむやみに困惑させないような存在でいよう。そんなふうに思うようになったのである。
 もちろんそれだけではなく、手がける仕事の種類や取引先が変わってネット発信リスクがそれまで以上に上がった経緯もあったし、ネット空間が急速にパブリック化し、それまでのような「チラ裏」的使い方が適さなくなったという世情の変化も影響した。

 しかし、30代も後半にさしかかった今思うのは、「もっと好きなだけ書いておけばよかったのに」ということだ。

 どうせ人間、本質的なみっともなさは隠しようがない。もちろん法律とモラルは守らなければならないし、10年前とは比べ物にならないくらい炎上のデメリットも大きくなっているから気をつけるにこしたことはない。ただ、「精神的露出狂に見えすぎないように」なんてことを気にして書きたいことを多少控えたところで、誰の役に立つでもないじゃないか。そのせいで私はむしろ、「あの時のこれについてもっと書いておけばよかったなあ……」と思ったりしているのだ。

 家の中に閉じこもってひたすら育児に心血を注いでいた私の救いになったのは、うんと希釈した私の稼いだヘソクリ貯金だけではなかった。私の原液ダダ漏れ文章もまた、未来の私を支える存在だったのである。

 今回の反省から、私は決めた。
 どれだけ痛かろうとキモかろうと、ネット上での自分語りは遠慮しない。”一線”は守る必要があるが、多少みっともなくても書きたいことは書いておく。
 この先、何があってまた不自由な状態に身を置くとも限らない。自分や家族の病気、介護、事故、災害、可能性はなんだってある。そのときにまた、自分がうすーくなってしまうこともあるだろう。
 そういう時にぐびぐび飲み干せる、自分の原液としての自分語りを残しておくのは、精神のセーフティのためにも大事なことだ。人によってはそういうものが必要ない人もいるだろうが、私にはたぶん必要だ。そういえばストレングスファインダーでも、「原点思考」がTOP5入りしている私である。

 だいたい、他の人が書いたものを読むときだって、結局私は「より原液に近いもの」を求めている。
 本でもネット記事でもなんでも同じだ。うまくなくても読みやすくなくても、その人でしかありえない、その人の生命がその場で燃えているような文章を探して読んでいる。そういうものにこそ触発されて生きてきた。
 なら、私の自分語りだって同じだ。誰かから見て不可解だったりイタかったりしても、他の誰かにとってはそうでないかもしれない。当たり前のことなのに、どうしてそう及び腰になっていたのだろう。

 何が好きで、何が嫌いか。何に興奮して、何に萎えるか。人の何を尊敬し、何を軽蔑するか。世界の何を祝福し、何を駆逐せんとするか。
 自分を縛るのではなく足元を固めてくれる言葉を探って、これからも私は自分の話をしていく。

 4月7日でサービス開始から10年経ったというnoteにも、まだまだお世話になりそうです。

この記事が参加している募集

noteでよかったこと

読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。