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千夜恋夜物語

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恋愛掌篇「マスクガールと停電の夜」

恋愛掌篇「マスクガールと停電の夜」

 

リリコがマスクをつけるようになったのは、新型コロナウイルスの流行より何年も前のこと。両親でさえ、彼女の顔を幼少期以降はほぼ覚えていないくらいだ。リリコは時折真夜中にこっそり鏡で自分の顔を確かめることがある。だが、グロテスクな代物だ、という以上の感慨がわかない。

というか、人間は全般、グロテスクなものだ、とリリコは思う。よくみんな、マスクの一つもつけずに外出ができるものだ、と感心と疑問が同時

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恋愛掌篇小説「音になれば」

恋愛掌篇小説「音になれば」

「ヨーグルトの期限、切れてたら捨てなさいよ」
 たぶん乃亜は僕を責めているのだろう。出張から帰ってきた乃亜は機嫌が悪い。

 期限の切れたヨーグルトと機嫌の悪い乃亜。
 
 しかし、その横顔は謎めいている。知っている横顔だが、二日間の出張の間に作られた外の空気が見知らぬ表情を作り出す。

 いっそ乃亜の言葉が分からなくなったらいいのだけれど、と僕は考える。いまこの瞬間、唐突に乃亜の言葉がわからなく

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千夜恋夜物語「憂鬱な象みたいな」

千夜恋夜物語「憂鬱な象みたいな」

 筆箱というものを、トワは一つだけもっていた。

 文字通り生涯で、一つだけ。

 先週、叔母の一人娘にあげたやつがそれだ。

 あれはもともと、小学校に上がるタイミングで、

 叔母にプレゼントされたものだった。

 革製の、とくべつ憂鬱な象みたいな群青色の、直方体の筆箱。

 渡された時点で、すでに群青の革には無数の傷跡があり、新品の商品でないことがうかがえた。

 叔母は言った。

「この筆

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