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わたしの爪物語

プロのネイリストになりたいと思ったことはないし、人気動画のセルフネイルほど綺麗にもできない。
それでも自分の爪に自分で色を乗せていくのは、不思議とどんどん楽しくなってくるのだ。

今日は午後からネイルメンテナンスをする予定でいた。
数日ぶりに晴れて、近所の鯉のぼりも我が家の洗濯ものも気持ちよさそうに泳ぐ爽やかな風の日。お散歩もいいけれど、と思いながらネイルアイテムが詰め込まれたバニティポーチとLEDライトを用意する。
ちょうどまるはお昼ご飯をお腹いっぱい食べて寝こけている。わたしは【うつ】になってからひとりでテレビを見ることが少なくなっていたから、このときも例に漏れず我が家は自分のタブレットから小音で流す動画と、外の生活音だけ。

最初の出会いは高卒で初めて就職したヘアサロンの先輩と、講習に行った帰り道だった。声をかけてきた人の性別とかはもう覚えていない。オープン記念で500円でポリッシュを施してくれると言うのだ。
1人だったらスルーしていた。先輩と一緒なら、と連れられて入ったネイルサロンが、わたしの人生初のところだった。

アシスタント美容師だった先輩もド新人のわたしも爪はベリーショート。そんな丸くて小さな爪に、ネイリストのお姉さんがきれいにベースコートを塗っていく。
こんな風に手を触られたことがなくて、「手荒れがひどくてすみません」と言った記憶がある。お姉さんはスカルプチュアの長い爪で、器用にわたしが選んだ青いラメのポリッシュをグラデーションで乗せていってくれた。
先端に色づくグラデーションだから、短い爪でもきれいに見えた。
こんなに丁寧に爪に色を画かれるのももちろん初めてで、ピンクのラメを塗ってもらっていた先輩と目を合わせて笑った。

嬉しかったのだ。お洒落は服や髪やメイクだけじゃない。自分の知らなかった可能性をひとつ教えてもらったような気分だった。
お姉さんは「また来てくださいね」と言ってくれた。帰り道は先輩と一緒に、キラキラになった自分の指先を眺めながら歩く。
「勿体ないなあ」
先輩が呟いた。わたしも「ほんとですね」と応えた。だってこのきれいなネイルも、次の仕事の日には拭き取るのだ。なんて儚いのだろうと思いながら、それでもやっぱり嬉しくて。
生まれて初めて、自分の爪をきれいだと思ったかもしれない。


「こんなものかなぁ」と独り言をぽそり。
わたしのセルフネイルはジェルで、一番上のトップコートとその下のカラージェルをファイルで削って、10本の指先にはベースジェルの一層だけが残る。自爪を傷つけず、前回のベースの上から新しくベースを塗るフィルインというやり方だ。
爪の長さを整えて甘皮を処理して、拭き取る。作業用のエプロンをつけていて、その上に削った樹脂が白い粉になって溜まっていたから、これを一度捨てて手を洗って油分を取って。
「よし!」
ここからがお楽しみだ、とわたしは今日乗せるカラージェルの色を選び始めた。

ネイルアートに本格的に魅了されたのは、最初のヘアサロンを辞めて同業の別会社でレセプショニストとして働き始めた頃からだ。
技術者になることを諦めざるを得ず、それでも夢だった美容院にもう少し携わりたくて転職したレセプショニスト。ネイルは自由でむしろ何もしないと怒られるくらいだった。
自爪が弱かったわたしはそれが補強されるスカルプチュアを楽しんだ。厚めに作られ、ネイリストの細かい技術で立体的な花を咲かせたり、色を吹きかける機器で蛍光色やグラデーションを乗せたり。そういう工程を見るのが本当に楽しい時間だった。

そう、元々はサロンに通っていた。その時間さえ好きだった。
完成したネイルをお客様に褒めていただけるのも嬉しかったし、仕事中にちらと視界に入ってくる鮮やかな色が元気をくれるのだ。
「子供の頃にやりたいと思った仕事を全部経験する」という多少おかしな事を実行していた自身の職歴は10を超えるのだけれど、アパレルや雑貨屋さん、靴屋さんなどではいつもネイルアートを楽しんでいた。

ジェルネイルの技術がどんどん発展していって、今度は別のネイルサロンでハードジェルを施してもらうようになる。
その頃に出逢ったネイリストのことを、わたしはいつも「先生」と呼んでいた。彼女の得意分野は物語を込めたニュアンスネイルだった。

わたしが好きな絵本の世界観を表現した水彩のようなデザイン。
夏祭の夜店と水風船をイメージしたもの。
結婚式に出席するときには、着物の絵柄や帯締めに合わせたカラーを持ってきてくれたり。
先生が創り上げる唯一無二のわたしだけのニュアンスアート。物語を彩った小さな世界が指先に宿るのだ。


その後もジェルネイルの進化は止まらず、今は110円でワンカラーが買えてしまうようになった。
可愛く簡単に真似できるデザインを配信する人も多い。
わたしもベースとトップコート以外はほぼすべて100円ショップで買えるものだ。色とかによって粘度や仕上がりが変わるから扱いづらいところもあるけれど、色も豊富で手軽に爪をメンテナンスできるから、100円ショップは侮れない。

……いつもわたしの爪を綺麗にしてくれていた先生は、あるときサロンを辞めてしまった。
わたしはひたすらショックで、何度か別のサロンに行ってはみるのだけれど。
施術してくれる人たちには申し訳ないけれど、先生ならもっとわたしの爪を理解しようと向き合ってくれていたなと思ってしまう。

mimuさんの爪は今こういう状態で、これから治療も兼ねてこういう風にしていきましょうね。手が荒れているので、アセトン無しでフィルインでやりますね。ちゃんと毎日オイルとハンドクリームで保湿してくださいね。
あれ、またお仕事か何かで爪をぶつけました?自爪まで傷んでるので補強しときますからね。
今日はどんなデザインにしますか?mimuさんのリクエストはいつもやりがいがあって好きなんです!

先生はわたしの爪の専門医みたいなひとだった。
ネイリストの資格のことはよく知らないけれど、健康な自爪にするための知識は当然持っているのだと思う。彼女はそれを惜しみなく実直に伝えてくれて、爪を通してわたしの環境や心境とも向き合ってくれた。
わたしが指先を雑に扱うとすぐに分かるみたいで怒られたし、「ショートにしたい」と告げると、真剣な顔を爪からこちらに向けて「何かあったんですか」と、わたしの心の変化を心配そうに訊いてくれる。
それで失恋した話をしながら、わたしが笑顔になれるような可愛いデザインを生み出してくれるのだ。

マスクの上からでもわかる美人でクールな顔が素敵で、笑うと目が弧を描く可愛いひとだった。
ジェルのオフなどで手が白い粉まみれになるのに、それでも「大切なものなのでつけていたいんですよ」と、お祖母様からもらったというヴィンテージカルティエのリングをつけていて。
そういう人柄もセンスも技術も含めて好きで、先生以上にわたしの爪事情をわかってくれる人は今後現れないだろうなと悟った。

だからセルフネイルをはじめたのだ。
正確にいうと再開。一度やってみようと思って買ったLEDライトが実家にあって、なんやかんや諦めて気づけば放置していた。時を経てまた使うことになったライトだ。

いつまで経っても手先は不器用で、だけれど自爪のセルフケアの仕方や守り方は先生が教えてくれたし、自分で好きなように色を乗せる楽しさはセルフネイルから教わった。
手荒れは皮膚科に通っている。簡単には治らないから辛抱強く付き合っていかなければいけないけれど。


「まる、出来たで〜」
そう言って、完成した両手を猫の目の前にかざす。猫は目をぱちくりして
「よくわかんないけど撫でて!」
と手にすり寄ってきた。
右手はココアブラウン、左手は黒ごまラテみたいなニュアンスに。アンティークな花を模したゴールドのパーツシールは、不細工になってしまったところを隠すように貼った。
トップコートは100円ショップにはないハードジェルで強化して爪を守っている。
息子にはわからんか〜と思いながら首元をわしわし撫でる。今回ショートネイルにしたからか撫でられ心地が良かったようで、猫はすごく気持ちよさそうに目を細めていた。

ポリッシュやアセトンはツンとした強い匂いがするから、息子のためにも使わない方向で良かったと思う。ただ足のネイルだけはポリッシュなので、猫とは離れた部屋で使うようにしている。
そういえばもうそろそろサンダルの季節。足元のメンテナンスも今度やろう。

まるのふわふわなラテ色の毛並みを撫でるわたしの爪。新しい小さな世界を乗せた爪。
【うつ】と共存する中でしんどくなって下を向く時も、なおさんと食べるご飯を作る時も、洗濯ものを干して畳んでいる時も。
それからこうして文章を綴っている時も。
わたしの視界には、わたしが創った小さな世界がいつでも在るのだ。

『わたしの爪物語』

心残りは先生に「これまでたくさんありがとう」と言えなかったこと。
どうか今でも何かしらの形でネイルを楽しんで、元気にしてくれていたらいいなと思う。


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