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ため息俳句 花眼

 白糸草を見に森林公園へ出かけた。

 毎年のことであるから、どこに咲くか知っているから迷うことなくその森へ。
 白糸草の群生の脇に、都忘れが咲いている。

都忘れの薄紫に並びで、薊。

 それから紫蘭。

   山苧環やまおだまき

 更には、二人静。

 そこから30分ほど歩いて、ボーダー花壇へ。
 園芸種の花園。
 昔ながらの美形、芍薬しゃくやく。  


 さて、「花眼」とは中原道夫さんの句集で見かけたことばであった。もしかすると「花目」であったかも知れない。句集は書棚の何処かに紛れてしまっていて、確認できない、申し訳ない。
 その「花眼」であるが、「かがん」と読むのが通常のようだ。
 「花」という語は、もともとに1. はな、はなさく。2. はなやか、うつくしい。3. かすむ、もや。というような意味(『字通』より)があるということだ。「花眼」というのは、その3.にあたる「霞む」の意をもって、目がかすんで見える、目がぼんやりする、ということで、早い話がつまり「老眼」をさすのだという。
 中国語では、この老眼の意の他に、いろいろありすぎて目移りする、目を疑うなどという場合にも使われるようだ。
 しかし、もともとの「花」に〈霞む〉とか〈もや〉とかいう意味があるというのが、興味を引かれる。
 自分たちが「花」というのは、咲く花から連想して華やかで目立って鮮やかものをいうのだが、その反対に霞んでぼやけたという意味になるというのは、どういうことだろう。よくわからいないのだが。

 

花眼なり心に花を視よとかや  空茶