水曜日の窓辺
折々の花々に寄せた句をまとめてみました。
どことなくふれあった俳句作品についての所感を記録しておくノートのまとめです。
本編の「ため息俳句」には、ちょっと収まりそうもなかった試作的なもの、紀行文など、それと、自分の作品作りへの姿勢など、あれこれです。
俳句をたしまなれる方々には世に月並俳句と云われれば、お腹立ちのことと思います。しかし、俳句のよしあしなど皆目見当もつかない老人ゆえ、せめて「月並」と云われたいと願う始まりの25回分のまとめです。番号がついています。これはせめて100回までは続けようというモチベーション保持のためにつけたものです。100回以降は、番号はありません。
POOHさんへ睨めつこ卯の花くたしかな 空茶 今日の終日の雨を「卯の花くたし」というには、旧暦4月6日の今朝はすこし早いのかも知れない。しかし、我が家の垣根に混じる卯木は、もう花が終わっている。 今日は、一日雨だと、強く降ることもあるとか。 通勤通学にかかわりない身の申しわけなさを思ったりしていないわけでもない。 さて、にらめこであるが、本当を云うと、POOHさんほどにらめっこが不似合いなキャラクターはいないと、よ
カーネーション不在再配依頼にて 空茶 息子は、勤め先近くの花屋さんから毎年送ってくる。今年は、うすいピンク色。 数日前には再配達してもらって、今は日を当てた方がよいと、妻は小縁に置いた。 娘は、いつも身に着けるものを送ってくる。あれやこれやと、選ぶのが大変らしい。 そのうち、「父の日」やらもくるのであるが、気にしてくれているのは息子のお嫁さんだけだが、ありがたいことだ。 ちなみに、「母の日」にはカーネーションが贈られるのだが、「父の日」は、薔薇なのだそうだ。も
早く目が覚めて。 葉隠れに梅の実匂ふ夜明けかな 空茶 花眼にも色づくがあり庭の梅青梅は腹を下すと叱られし 梅落ちて白き小石に並びけり
自分には、兄と妹いる。つまり、次男坊である。 両親は、よく働いたが、貧しかった。貧しいとはいえ、家族五人肩寄せ合って暮らした。一度としてこの家族の一員であることをみじめだなどと思ったことはない。 しかし、年月が経ち、兄自分妹のそれぞれが離れて暮らすようになると、少しづつ齟齬が生じてきた。そのうち互いに距離を感じ始めた。両親を思う気持ちは三人に変わりなかったが、親と同居する兄と家を出た自分と妹、そこには現実的面での食い違いは徐々に広がっていった。 そんなことで、両親が亡
孫のための買い置きおやつ、「たべっ子どうぶつ」。 それをちょっと失敬して、食べる。 後期高齢者の自分である。 やさしい塩味のビスケット。 例えば、このブログに取り掛かって行き詰まったりすると。 おいしい。 パッケージ『おすすめのポイント』にこうあった。 「★からだの元気を応援するカルシュウム・DHAが入って★おなかにスッキリやさしい食物繊維を加え★楽しみながら、外国語が覚えられます。(12枚で80キロカロリー程度) なんとまあ優れもののビスケットではない
各地名産のブランド苺は、ハウス栽培である。 だが、我が家の苺は、畑の一隅に半ば自生のような感じで、今日辺りは旬のそろそろ終いを迎えている。 今年は、とても豊作で、ほぼ一日置きの収穫であるが、両手に一杯に乗せて三度ほどは採れる。 ただし、売られているような大粒は稀で、小さなヤツが大多数だ。 こんな感じで、形も整っていない。大きさもばらばら。 酸っぱいし甘さは薄い。 それに、行き当たりばったりに、安物の苺の苗を、継ぎ足すように植えてきたので、何種類もの苺が混在し
四月ついたちの日よめる 和泉式部 櫻いろに染めし衣をぬぎかへて山ほとぎす今日よりぞ待つ この和泉式部の歌について、塚本邦雄さんはこういう。 それほどに、時鳥は平安の都人に愛されてきたのだ。 以降、今日に至るまで、・・・・。 その時鳥であるが、この時期この国に飛来して、山間部の林の中に住むという。夏の訪れを告げる鳥として、おそらく和歌や俳句に詠まれている鳥の頻出度からいえば、五指に入るだろうが、恐
白糸草を見に森林公園へ出かけた。 毎年のことであるから、どこに咲くか知っているから迷うことなくその森へ。 白糸草の群生の脇に、都忘れが咲いている。 都忘れの薄紫に並びで、薊。 それから紫蘭。 山苧環。 更には、二人静。 そこから30分ほど歩いて、ボーダー花壇へ。 園芸種の花園。 昔ながらの美形、芍薬。 さて、「花眼」とは中原道夫さんの句集で見かけたことばであった。もしかすると「花目」であったかも知れない。句集は書棚の何処かに紛れてしま
とうもろこし蒔きて一日夏来たる 空茶 それに、五月五日は端午の節句。 先ほど、菖蒲を買い忘れていたと、妻が買い物に出た。 やはり、今夜は菖蒲湯でなくてはいけない、それをうっかり準備し忘れていたと、ちょっと慌てていた。 昨晩遅く、孫たちが帰っていったので、今日は静かな「こどもの日」であった。 おかげで、畑の作業がはかどって、ほぼ、するべきことを終えた。
娘夫婦は、一晩泊まって、昨日朝、片品の方のロッジへ出かけた。今夕のまた戻ってくる。そして夕飯を食べて、神奈川の自宅に帰るのだそうだ。いい気なもので、家族旅行の中継点に実家を使って、道路渋滞の間隙をねらっているのだ。 それなのに、老妻は孫のためにせかせかとあれこれや思いを巡らしている。食事にしても、思いつく限りの子や孫の好物を用意しようとするのだが、なんせ料理するのは原則自分であるから、いい加減にしてほしいと、云ってやった。というのは、あれで、いつのものように唯々諾々と日和
5月1日は、メーデーの日である。生憎の雨、それに風もある。こんなでは行進も辛かっただろう。行進解散後に、一杯というのが、昔の我らの毎年の成り行きであった。大体が、新橋駅周辺の居酒屋が多かったが、この頃はどうなっているのだろう。 さて、今夜は今年の八十八夜である。 茶摘みの歌のあの八十八夜だ。 これまた月並に云えば一つの日本の原風景をうたっているような、実際にはこんな風景を見たことはないが、どこかで見たような気分に誘われる。困ったことだ。 八十八夜は春から夏
腹八分満つれば眠し四月尽 空茶柿若葉薄く曇るにやや濃くて茄子胡瓜トマト西瓜の苗揃う我が畠の檸檬の花はこぼれけり番わんと追いつ追われつの雀かな自転車を押し来る妻に暮れる春 4月が終わる。 今日は買うべき苗は買い揃えた。 ポットにも、西瓜と隠元とトマト、枝豆、オクラ、ゴーヤが蒔いてある。トマトの芽は、本当に小さくてかわいらしい。隠元はもっさりと芽を出した。他はまだ発芽していない。 静かな夕暮れである。
さて、「不適切にもほどがある」というテレビドラマは、大いに話題になりました。自分も楽しみにしてみていました。 題名の「不適切」というのは、昭和の時代の価値観や生活習慣は、令和の現在から見ると、不適切としかいえないことが、沢山ありましたねえという意味の不適切でありました。 そうではありますか、他方で昭和レトロなどといわれて、様々なことがとりあげられ、若者の間にも昭和風のデザインや町並みのファンが少ないと聞いています。 「不適切にもほどがある」の脚本家宮藤官九郎は実に
益子の陶器市に行った。 四五年ぶりか。 年をとったせいか、茶碗や皿を、角にぶつけてが傷めたり、落として割ったりすこることが、増えた。 普段使いの湯飲みをカミサンがほしいということで、益子まで足を伸ばした。この連休には、陶器市が開かれ、賑わうのだ。 益子町のメインストリートの両脇に所狭しと陶芸家のみなさんが店を列ねている。一寸外れた露地にも、広場にも。この期間はそれらの店々を巡って歩くお客さん達で、混雑するのだ。 何度も来ているので、大凡の目星はつくのだが、新しい発
さて、葉桜の向こう側に、鉄線が咲いている。 鉄線というよりクレマチスの方が通りがよい。 この花が咲くと、いよいよ夏が来ると感じる。 鉄線あけっぴろげに笑いたり 空茶
年をとったればこそ身なりは小綺麗にしなさいというのが、日頃からの妻の自分への注意である。 ともすると、野良仕事の姿で外出しようとしたりして叱られる。とにかく普段着でどこでもでかけてしまうのが、彼女には気になるらしい。 いよいよ夏めいた日が続くに及んで、いつの間にか夏物の衣服に替えられていた。まあ、そういうことについては、小言のうるさい古女房であるが、ありがたことだ。 外しませうクリーニング屋のタグ更衣 空茶 タグをつけたまま、徘徊もしばしばなので。自分への注意喚起で