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ため息俳句 ほととぎす

四月うづきついたちの日よめる          和泉式部 

櫻いろに染めし衣をぬぎかへて山ほとぎす今日よりぞ待つ
                      


 この和泉式部の歌について、塚本邦雄さんはこういう。

櫻が散って、四月朔日ついたちが來れば、花染衣はなぞめころもは昨日のものとしてうすものに着更へ、さて次に咲くのは卯の花、橘の花、そうして初夏の主役はほととぎす。それも初夏はまだ遠音の山ほとぎすだ。この歌、後拾遺・夏の巻首に選ばれた秀歌。

塚本邦雄「清唱千首」より

 それほどに、時鳥は平安の都人に愛されてきたのだ。
 以降、今日に至るまで、・・・・。

 その時鳥であるが、この時期この国に飛来して、山間部の林の中に住むという。夏の訪れを告げる鳥として、おそらく和歌や俳句に詠まれている鳥の頻出度からいえば、五指に入るだろうが、恐らくそれも首位に近いのではあるまいか。
 ところがである、自分といえば、その時鳥の鳴き声を自分の耳で聞いて、きちんと存在を確かめたことが未だかつてない。野鳥図鑑で何度もどのような姿か確認した。YouTubeの動画で繰り返し視て、かつ鳴き声を耳に憶えさせようともした。
 しばらく前から野鳥を眺める楽しみも知って、森林公園を散歩するには双眼鏡も常に携帯している。多少は鳥の見分け方も覚えた。にもかかわらず、「あれは時鳥だ」と確信したことがないのだ。

 まったくもって「時鳥」は季語中の季語である。その実体を知らずして俳句が好きですなんぞと、口にできるだろうか。
 もちろん、歳時記を開いて季語を眺め渡せば、「時鳥」ばかりでない、多分正直に言えば、例えば植物などでも、かたっぱしから存じ上げないものが、居並んでいる。そうではあるのだが、それはそれとして傍らに置いておき、何といっても「時鳥」を知らない無念さは格別。
 この夏こそは、この自分にとっては幻の「時鳥」に出会いたいものだと思うのである。

ほととぎす我が身ばかりに音もなし 空茶
   


 なんて、すぐにひねくれる爺ィである。
 いやいや、もし爺ィが山時鳥になれるなら、式部のもとに馳せ参ずるのであるのに。