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めいそう日記Ver2〜Day267:日本人とお米(後編)


1. 瞑想小咄〜日本人とお米(後編)

日本人のアイデンティティと切っても切り離すことができない米。日頃食べている人もいるだろうし、そんなに好んで食べないという人もいるだろう。とはいえ、日本の食文化の中心にあるものと言っても差し支えないほどの影響力はあるに違いない。

そんな米なのだが、あなたはどれくら米に関わったことがあるだろうか。おそらくほとんどの人が、「食べること専門」なのではないかと思う。私もそうだ。

昔、私の家の周りには田んぼが広がっていて、幼い頃はよく田んぼで遊んだものだ。田んぼにやってくる数々の生物に触れたり、収穫が終わった後の田んぼで遊んだり。今となっては所有者に怒られそうなものだが、昔はかなりおおらかな時代だった。きっと、子供のすることなので黙認してくれていたのではないかと思う。

そのように田んぼを見ながら育ったものの、実際に田植えをしたことがあるかというと、実はこれまでの人生の中で一度もなかった。何事も体験が第一。先日、知り合いの方が田植えをするというので、田植え体験をさせてもらったのだが、これが人生で初めての田植えとなった。

最近は米の栽培も機械化が進んでおり、田植えも田植え機を使って一気にやってしまうのが普通。しかし、その知人はあくまでも自分たちが食べるためのお米しか作っていないので、手植えを行なっているのだという。なので、私も人生はつの手植えを体験することになった。

手植えをするに当たってまず驚いたのは、田植え用の長靴があるということだ。話に聞くと、通常の長靴ではぬかるみにはまってしまってすぐにすっぽ抜けてしまうのだとか。実際にやってみるまでは半信半疑だったのだが、やってみて即座にわかった。確かにこれは通常の長靴では無理だと。

その方のやり方は、田んぼに対して横にロープを張り、ロープにつけてある目印の下に植えていくというものだった。整然と並ぶ稲は、このようにして一律の間隔で植えていくからだということを知った。しかしまぁ、そもそも歩くの自体困難を極める中、植えるべき場所に苗を植えていくのはかなりの重労働。そりゃ、田植え機が開発されるわけだと思った。

手植えは、一人では到底できるものではない。家族や親戚一同、もしくは近所の人たちが互いに助け合うことでようやく達成できる。実際に手植えを体験してみたことで、それを痛感した。一人ではできないから、助け合って行う。日本人のコミュニティは、手植えを通して形成されていったのではないかとも感じた。

米は食べ物として日本の文化を形成しているだけではない。日本の風土や文化、気質そのものにも大きな影響を与えているものなのだろう。

知人から米について教えてもらった中で、印象に残った話がある。米は1株から分けつするのだそうだ。一粒の米から1株が生まれる。1株は5株に分けつして増える。そして、それぞれの株が数十の粒をつける。まさに、一粒万倍。

米はもちろん美味しいので主食になったのだろうけれども、もしかしたらそれだけではないのかもしれない。一粒の米が数多に増えていく様を見て、その様子に神秘性を感じたからこそ、神様から与えられた食べ物という理解をすることになったとも考えられるだろう。

最近、主食の種類が増えて米を食べる頻度が少なくなってきた。しかし、改めて米について知ってみると、もっと米を食べるべきだなと思うのだった。

2. 今日の瞑想〜2024.4.29 Mon 15:55〜(5min)

今日は朝瞑想をする時間がなかったため、昼間の空いた時間に瞑想。しかも新幹線に乗っている間に。隣に富士山を眺めながら、誘導瞑想をすることにした。

今日はこの誘導瞑想。

新幹線の座席に深く腰掛ける。そして、姿勢を整える。ガイドに従って、自分が一本の木になったようなイメージをしてみる。深く根を下ろしていくような感じ。周囲は騒がしいけれども、不思議とそこまで気にはならない。5分間というわずかな時間だったけれども、自分と向き合う時間を過ごすことで、心が落ち着いたような気がする。

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