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ハートに愛をたやさぬように。

大学生の頃、演技の先生に「幸せな思い出」や「悲しかった思い出」を3つずつ心に持っておきなさい、と言われた。実人生で経験した過去の感情を舞台上で表現するために使うのだ。そうすると演技に嘘っぽさが無くなり、リアルな感じが出る。残念ながら、僕にはその演技方法が合わなかったけれど……。

でも、幸せだった思い出を心のなかに持っておいて、いつでも取り出せるようにしておくのは結構役に立つように思う。

心があたたまった記憶を胸にもっておくのだ。それはその人の人生をぱっと明るく照らす光になる。

僕はそうした思い出をたくさん心の中に持っている。それはまるでスマートフォンの中のプレイリストのように僕の心の中にいつでも寄り添っている。

不安や恐怖、後悔が襲ってきた時にそうした思い出をお守りのように心のポケットから取り出すことによって、愛に満たされるようにする。

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小学生の頃、普段であれば夜遅く帰って来る父が夕方に帰ってきた。父に「公園に遊びに行こうか?」と言われ、僕は父についていった。それからサッカーボールを互いに蹴り合った。幼子だった僕は無邪気にこう訊ねた。

「ねえ、パパ、どうして今日は早く帰ってきたの?」

父は少しの間を置いた後、こう答えた。

「……、パパね、会社の偉い人とケンカしちゃったんだ」

父はそう答えてからもう何も話さなかった。西日を受けたスーツ姿のままの父がボールを黙って蹴りつづけていたあの夕暮れのことを思い出すたびに胸が痛む。愛おしい記憶というのはそういうことだ。

その記憶は決して、ハッピーでない。単なるハッピーな記憶は浅い。ハートがあたたかくなる記憶と言うのは、ちょっと胸に痛みがある。聖なる痛みだ。生きるということは胸を痛めるということだ。

胸が痛むということは「ありがとう」ということだ。上司に怒られながら、頭を下げながらご飯を食べさせてくれたことに対する純粋な感謝だ。そういう痛みが胸をあたためてくれる。

必死に働いて、塾に通わせてくれたり、大学に進学させてくれたのに、就職しないで好き勝手生きさせてくれたことに対する「ありがとう」と言う気持ちだ。そして「ごめんね」と思う気持ちだ。「ごめんね」と「ありがとう」が抑えきれないほど高まった時、ハートから愛が溢れることになる。

もし、そんな記憶を思い出してハートがあたたかくなるのであれば、それにしがみついておくことだ。目を閉じて、その胸の痛みや優しさに集中して、瞑想する。

優しく穏やかな呼吸をして、その感覚に明け渡してゆく。やがて、ハートから愛が溢れてくる。それが世界に広がってゆくのをイメージしてごらん。

自分が愛そのもので、世界が愛に満たされているのを。

物質は肉眼で見れば確かに確固として存在しているように見える。僕もあなたも別々に存在しているように見える。でも、もっとも微細なレベルから言えば素粒子なのだ。本当はすべては一つなのだ。ワンネスだ。ワンネスは愛だ。全面的な愛だ。あなたの胸の中の痛みが──愛が今、あなたがいる壁を通り抜け、ビルや山や海を越え、世界中に行き渡っているのを想像してごらん………。

そして、そのように大きくなったあなたが──世界そのものであるあなたが誰かのことを憎んだり、攻撃したりすることがあるだろうか?

何か愛以外の思考、不安や恐怖などが湧いてきたら、ハートという家に帰ることだ。魂の家に帰ったその時、あなたはもういない。宇宙全体とも言える広大なハートと一つになる。

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