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【日露関係史18】プーチンと日本①

こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第18回目です。

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1999年12月に辞任したエリツィンの後継者となった首相ウラジーミル・プーチンは、翌年3月の選挙で大統領に当選し、以降、2024年現在に至るまで権力の座にあり続けています。四半世紀近くもロシアの最高権力者として君臨するプーチンの対日政策とはいかなるものだったのでしょうか。そして、日本政府は、プーチンといかに対峙してきたのでしょうか。今回は2000‐08年までのプーチンの大統領1・2期目と、2008年から2012年までのタンデム政権期までの日露関係について見ていきたいと思います。


1.プーチンと柔道

日本ではつい最近まで、「プーチンは親日家である」という言説がまことしやかにささやかれていました。これは、プーチン自身もアピールしていたことであり、2000年1月に行われた小渕恵三首相との電話会談でも、次のように述べています。

「私は、柔道を二十年以上もやってきました。日本の伝統、文化の深さを知る者としての私が、はたして日本を愛さないはずがありましょうか」

木村汎『プーチン』131頁より

プーチンの論法は、自分は日本の武道愛好家であり、ゆえに日本びいきの親日家である、というものです。確かに、プーチンは13歳の時から柔道をはじめ、24歳の時にレニングラード市の柔道チャンピオンとなり、大統領就任後も稽古を続けている「柔道通」です。おそらく、柔道着姿のプーチンを見たことがある方も少なくないのではないでしょうか。

柔道着姿のプーチン
なお、一番得意な技は「出足払い」とのこと。
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4918359

プーチンは日本の柔道界との交流も深いです。2000年1月のモスクワ開催された柔道国際大会では、日本代表団より記念品として柔道着を手渡されていますし、2003年11月に来日した際には、全日本柔道連盟理事である山下泰裕より、柔道創始者嘉納治五郎直筆の書を贈られています。また、外務省も柔道を通じた日露交流プログラムを計画し、2004年から日本で開催されている中学生の国際柔道大会に、ロシアの子供たちを招待しています。

山下泰裕から、嘉納治五郎の書を贈呈されるプーチン
「自他共栄」とは、「互いに信頼し、助け合うことができれば、自分も世の中の人も共に栄えることができる」という意味。
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=115635265

では、そうした「親日家」を名乗るプーチンの対日政策とは、いかなるものだったのでしょうか。

2.プーチンと北方領土

まず、日露関係の最大の懸案事項である、北方領土問題についてです。結論から言えば、プーチンは北方領土問題について日本に譲歩するつもりはなく、2000年9月の公式訪日の際も、年内に平和条約を締結することはできないと主張し、領土問題を棚上げにして日露友好協力条約を締結するよう提案しました。当然、日本側はこの提案を拒絶しました。

打開策を求めた森喜朗首相は、2001年3月にイルクーツクでプーチンと非公式に会談し、「同時並行協議」という新たなアプローチを提案します。これは、日ソ共同宣言で返還が合意されている歯舞・色丹について具体的な返還プロセスを協議すると同時に、その地位が未確定となっている択捉・国後に関する協議を進めるというもので、自民党の鈴木宗男総務局長が中心となって発案したものでした。

プーチンと森喜朗
イルクーツク会談の際、森はすでに退陣目前だったが、日露関係改善に意欲的だったことから、プーチンから「できればヨシには辞任を急がないでほしい」といわれたという。現在もなお、森は親露的姿勢が強い。
 CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5311782

この提案にはプーチンも好意的な反応を示し、会談後に発表されたイルクーツク声明においても、日ソ共同宣言及び東京宣言に基づいて北方領土問題を解決することが明記されました。しかし、2001年4月に成立した小泉純一郎政権は直ちに外交アプローチの転換を図ります。川口順子外相は、鈴木宗男に同調した東郷和彦佐藤優外務省職員を処分し、同時並行協議から四島一括返還論へと復帰したのです。日本側の変化にロシア政府は否定的な態度を示し、日露関係は低迷していきます。

鈴木宗男(1948‐)
元北海道開発庁長官。ロシアと深い関係があり、北方領土問題解決をライフワークと公言している。ウクライナ戦争以降、ロシアを擁護する発言を繰り返している。
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=126216118

3.日露行動計画

しかし、2002年になると、日露は再び接近していきます。同年8月にプーチンは、東シベリアのタイシェットからナホトカ近郊のペレボズナヤ湾に至る原油パイプラインの建設構想(通称「太平洋ルート」)を発表するなど、日本との経済関係強化を図ろうとアピールをします。一方、日本政府も、北方領土問題解決のためには、包括的アプローチが必要と考えるようになっていました。

2003年1月、小泉首相はモスクワを訪問し、プーチン大統領との間で「日露行動計画」について合意しました。同計画は、①政治対話、②平和条約、③国際舞台、④経済、⑤治安・防衛、⑥文化・人的交流の6分野において、日露両国の関係改善を図ることが盛り込まれました。日露行動計画調印後、原油価格高騰を受けてロシア経済が大きく成長に転じたこともあり、2003年に60億ドルだった日露貿易高は、2008年には298億ドルにまで伸展しました。

小泉純一郎とプーチン
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5256441

また、小泉首相はプーチンとの会談において、石油パイプライン「太平洋ルート」の早期建設と、日本が建設費の一部を負担することを提案します。さらに、小泉はモスクワからの帰路、極東ロシアの中心地であるハバロフスクを訪れ、ヴィクトル・イシャーエフ知事から「太平洋ルート」建設の支持を取り付けるなど、「太平洋ルート」建設に積極的な姿勢を示しました。これには、日本の輸入の9割近くを占める中東油田への依存を減らし、供給先を多角化したい思惑があったようです。

4.対日政策の硬化

2004年3月の選挙で再選され、二期目に突入したプーチンは、中国、カザフスタン、そしてリトアニアとの国境紛争を、面積を折半することで次々と解決させていきました。この勢いで任期中に北方領土問題を解決したいと考えたプーチンは、2004年11月にセルゲイ・ラブロフ外相、そして自身の口から歯舞・色丹の二島返還による決着を提案します。

中露国境の画定
中露国境は、ゴルバチョフ・エリツィン時代にそのほとんどが画定したが、2004年の合意でタラバロフ島、ボリショイ・ウスリースキー島、ボリショイ島の3島の領有が画定したことで、全て解決した。
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12267766

しかし、日本側からの反応が芳しくなかったことから、プーチンは一転して厳しい対日姿勢をとるようになり、日露間の国境は「第二次世界大戦の結果として確定済である」という立場をとるようになります。さらに、2005年9月には「クリル諸島社会経済発展計画」の作成を指示し、北方四島におけるインフラ整備を推進しました。この結果、エリツィン時代は島民の4割が支持していた日本への編入という意見は、大幅に弱まっていきました。

セルゲイ・ラブロフ(1950‐)
ソ連時代からの外交官で、2004年に外相に就任、以後、20年にわたってその地位を占めている。対外強硬派であり、特に北方領土問題に関しては、一歩も譲らない姿勢を示している。
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さらに、2006年8月には、歯舞群島の貝殻島近海で操業していた第31吉進丸が、ロシアの国境警備艇から銃撃を受け、船員1名が死亡する事件が起きました。根室海峡には海上に日露中間ラインが引かれており、これを北側に越境した場合は、ロシアによる拿捕の対象となるとされていましたが、ロシア側からの銃撃による日本人の死亡事件は、日ソ国交正常化後初の出来事でした。

5.タンデム期の反日路線

2008年5月、プーチンの腹心であるドミトリー・メドヴェージェフが大統領に就任し、プーチン自身は首相へと「降格」しました。この時期をタンデム期(露語で「二頭引き馬車」の意味)といいます。メドヴェージェフは北方領土問題に関して、「新たな、独創的で、型にはまらないアプローチ」を提唱しますが、それが具体的にどのような内容なのかは言及しませんでした。

ドミトリー・メドヴェージェフ(1965‐)
メドヴェージェフはリベラル派の「シビリキ(市民派)」に属する人物であるが、対日政策においてはプーチンよりも強硬な姿勢を示すことになる。
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2009年5月、麻生太郎首相が「ロシアは日本の固有の領土を不法占拠している」と発言、さらに翌6月には「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律」(通称、北特法)が改正されたことがロシアを刺激しました。ロシアは北方領土への日本からの人道支援受け入れの中止を発表し、同月イタリアのラクイラで開催されたG8サミットにおいて、メドヴェージェフは北特法改正などを非友好的行為として厳しく非難しました。

メドヴェージェフと麻生太郎
麻生は外相時代に「面積折半論」による北方領土問題解決、すなわち、国後・歯舞・色丹の3島に加え、択捉の一部を日本領とする「3.5島返還」と唱えたことがあり、四島返還から後退する姿勢を示したことで、ロシア側から与しやすい人物だとみられていた。
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6285355

その後、メドヴェージェフは、戦勝国であるロシアが北方領土を領有するのは当然であり、日本の返還要求こそ史実を無視した報復主義だとする戦勝国史観を前面に押し出していきます。例えば、2010年7月には、日本が降伏文書に調印した9月2日を「第二次世界大戦終結の日」とする法案が制定されます。さらに、9月には、メドヴェージェフの訪中時に発表された「第二次世界大戦終結65周年に関する共同声明」の中で、日本は「侵略国家」、ソ連は「解放者」であったことを強調し、「反日史観」での中露連携をアピールしました。

メドヴェージェフと胡錦濤国家主席
プーチン第二期目から、ロシアは日本に対して強硬な姿勢を取る一方、中国とは友好関係を築くように努める、「反日・親中路線」を取るようになった。
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15499666

同年11月、メドヴェージェフはヴェトナムからの帰路、ソ連・ロシアの現職の最高指導者としては初めて国後島を訪問します。この訪問はロシア国内で大々的に報道され、国民の領土ナショナリズムを喚起しました。菅直人首相はメドヴェージェフの国後訪問を「許しがたい暴挙」として糾弾しましたが、日露関係悪化を嫌った玄葉光一郎外相が訪露し、プーチンに秋田犬をプレゼントするというちぐはぐな行動をとったため、対露批判は腰砕けになってしまいました。

菅直人(1946‐)
第94代総理大臣。ロシアの対日姿勢の強硬化の背景には、2010年9月に起きた尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件の際、菅政権が弱腰の対応を取ったことが原因のひとつにあげられる。
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=76740253

6.まとめ

就任当時、親日派を自称していたプーチンでしたが、結局その対日政策も、北方領土問題を棚上げにして日本から経済協力を得ようとする、ソ連時代から続く路線を踏襲したものでした。それどころか、エリツィン時代に北方領土問題の存在が認められ、両国が協議することが合意されたのに対し、日露国境は第二次世界大戦の結果として画定済であるとするというところまで後退してしまったのです。そう考えると、プーチンの親日アピールも、経済協力を引き出すためのパフォーマンスに過ぎなかったのではないか、という気がしてなりません。

こうした対日姿勢の硬化には、「シロビキ」と呼ばれる人々が、プーチン時代になって重用されるようになったことが関係していると思われます。シロビキとは「武闘派」と訳されますが、軍人や諜報・治安機関で働いている人々、もしくはその出身者のことです。彼らは戦略的・愛国的な理由から領土割譲には特に批判的であり、自信もシロビキであるプーチンが彼らの意見や情報を重視したことから、より厳しい対日姿勢をとったと考えられます。

一方、日本政府の対応は、よく言えば対露宥和的、悪く言えば弱腰な姿勢が続きました。当初は四島一括返還を打ち出した小泉純一郎さえ、日露行動計画に調印し、「島」よりも「経済」を優先するかのような姿勢をとっていましたから、ロシア側から、日本は「資源」をチラつかせれば妥協すると思われても仕方がなかったのではないでしょうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

日露関係通史については、こちら

北方領土問題については、こちら

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千島列島をめぐる日露の歴史については、こちら

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