「ゴジラ-1.0」面白くないと思った理由を考察

「ゴジラ-1.0」を観てきた。
冒頭から最後まで通して思ったのは、「やはり邦画だなあ」だった。
アカデミー賞を受賞して、著名人の方も絶賛していたから期待していたが、私には、まったく合わなかった。

私のような人は、少なからずいると思う。
逆に面白かったという人もいる。
いろんな人にこの記事を読んでもらい、感想を共有できていけたらと思う。
こんな面白さがあるよとかそれ分かるわとかコメントをもらえたらうれしい。
しかし、この記事を読んで気分を害する人もいると思うので、そういう人はブラウザバックしてください。
また、ネタバレも多分に含んでいるので、観ていない人も読むのはお控えください。

映画の途中から楽しむことはできないと感じ、なぜつまらないと感じていしまうのかを考察しながら観ていた。
考察の結果は、以下のとおりである。

1.邦画特有の直接的な感動の押し売りの寒さ
2.展開が読めてしまう虚しさ
3.一辺倒な価値観の押し付け
4.安直な政権批判

それぞれ解説していこう。

1.邦画特有の直接的な感動の押し売りの寒さ
神木隆之介も浜辺美波も好きな俳優だが、なぜだか演技がわざとらしく感じてしまった。
そのことが感動を押し売りされている感じをもたらし、物語に没入できなかった。
余談だが、浜辺美波と神木隆之介の最初の出会いの後、次のシーンには慣れた様子で家に居ついているのが草だと思った。
終盤に元軍人たちが一致団結する場面でも、なんだか皆がそんな自分に心酔しているような気がしてうすら寒いと感じてしまった。

2.展開が読めてしまう虚しさ
この映画には、後に回収される展開が用意されていた。
下記の2つだ。
・神木隆之介の乗った戦闘機に脱出装置を搭載していた
・浜辺美波は生きていた

脱出装置に関しては、暗示的な発言もシーンもあったし、それを使って生き残るんだろうなと分かってしまい、早々に興が覚めてしまった。
浜辺美波が生きていたことに関しては、飲み屋で佐々木蔵之介が神木隆之介になぜ結婚しなかったと激高するシーンがあり、浜辺美波の死後にそのシーンを持ってきたことが不自然すぎて分かってしまった。
例えば、なぜ結婚しないのかと問い詰めるシーンを浜辺美波が死ぬ前に用意し、神木隆之介が結婚を決意する。そして、結婚前に浜辺美波が死んでしまう流れだと違和感がなかったと思う。
つまり、あの飲み屋のシーンは、浜辺美波復活のフラグになっていたのだ。
そもそも浜辺美波が爆風で吹き飛ばされるとき、神木隆之介を建物の陰に押しやり彼を守ったが、浜辺自身も身を神木隆之介を押し倒す形で身を守れたのにと身も蓋もないことを考えてしまい、萎えてしまった。

3.一辺倒な価値観の押し付け
「死ぬな」。
それは正しいし、戦中の日本人が忘れていた感情であったことだと思う。
だが、それを一辺倒に伝えるのは、それはそれで違和感がある。
また、昔の日本は家族愛とか仲間の絆とかが充実していたよねという訴えが透けて見えて、とてもきつい。

4.安直な政権批判
批判する隙があれば、すぐに批判する。
戦中、戦後を描いた映画にはそういう姿勢がよく見られるが、あまり好きにはなれない。
今を生きる我々から見れば、冷静な目で当時の政権には杜撰な点があったと気づくことができるが、当時の人々は、果たして本当にそういうことを思っていたのかと勘ぐってしまう。

最後に
「ゴジラ-1.0」を観て、私の中で日本の戦中を描いた映画といえば、「この世界の片隅に」が結論だなと思った。
「永遠の0」も「ゴジラ-1.0」も戦争に対する一面的な見方しか養えないと思う。
組織なんて一枚岩になるわけないのだから、良い、悪いの明快な二元論で描かないでほしい。
当時の政権の不手際さを語るのにフィクションはやはり適さないと感じた。
ただゴジラの迫力はすさまじかったし、光線を吐くシーンなんかはとても興奮した。浜辺美波も可愛かったから観に行ったことは後悔していない。

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